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知られざる修験の道「北峯宿」踏査行『諸山縁起』に記された北峯宿京都の洛西と亀岡を結ぶ山陰道に唐櫃越(からとごえ)という山越えの間道がある。戦国時代、明智光秀が本能寺の変で通ったとされる古道である。京都側の出口である西山近辺には苔寺や鈴虫寺といった有名な寺院もあるが、峯ヶ堂と呼ばれた法華山寺跡もある。法華山寺は、鎌倉時代に三井寺と法縁の深い慶政(一一八九〜一二六八年)によって創建された。慶政は、後京極摂政九条良経(一一六九〜一二〇六年)の子とされ、幼くして三井寺で出家し、中国の宋に遊学後は法華山寺にあって三井寺の復興に尽力している。仏教説話集『閑居友(かんきょのとも)』の著者として知られ、ほかにも『比良山古人霊託』や『漂到琉球国記』などが伝わっている。その後、九条家には慶政が所持していた書籍類が伝わり、現在は宮内庁書陵部に所蔵されている。そのなかに大峰山、熊野山,金峰山、葛城山など修験道の霊山の縁起や由緒を集めた『諸山縁起』(桜井徳太郎ほか校注『寺社縁起』日本思想大系二〇所収、岩波書店、一九七五年)が含まれている。 ここには和歌山の熊野から奈良の吉野へ至る太峯(大峯)、和歌山の加太から和泉山脈、金剛山地を経て大和川周辺に至る葛木(葛城)、京都の笠置山を指す一代峯のことが紹介されている。とくに葛城二十八宿について記した第十三項の末尾には、北峯宿として「青谷寺、中山寺、信貴山、往生院、下津村、髪切、生馬、鬼取寺、田原、石船、師子石屋、金剛寺、甲尾、高峯、波多寺、田寺、八幡」の十七の宿が記されている。大峯や葛城については宿の後に説明が付け加えられているが、北峯宿については名称が列記されるだけで、紹介されることもなく、その実態については知られていないのが現状である。 北峯宿の実地調査
北峯宿は、奈良から大阪へ東西に流れる大和川を起点として、生駒山を南北に貫く尾根道を北上し、大阪府の交野を経て淀川に至る。生駒山系を挟むように奈良側には神武天皇が北上したと伝承される現在の一六八号線、河内湖のあった大阪側には古墳が並ぶ一七〇号線(東高野街道)が南北に走っている。これらの道は鳴川峠、暗峠、清滝峠など河内と大和を東西に結ぶ古代からの峠道と格子状に交差しており、軍事的、経済的にも非常に重要なネットワークを形成していた。 筆者はこれらの宿を繋いだルートやエリアが持つ重要性から、かねてよりこの北峯宿の復興を試みて調査を重ねてきた。天正十四年(一五八六)ころに三井寺宝寿坊良玉が撰述した「葛城手日記」(首藤善樹編『大峯葛城嶺入峯日記集』岩田書院史料叢刊六、二〇一二年)にも北峯宿次第が「或本に云う」として「青谷寺、中山寺、信貴山、往生院、シモツフラ、神感寺、髪切、生馬、鬼取山、田原岩屋、師子石屋、金剛寺、鬼尾、高峯、波多寺、田九十、八幡嶽」とやはり十七の宿が記載されている。『諸山縁起』とは若干異なるものの両者を比較検証し、資料なども紹介し、次号では本年四月に実施した通し駈けの実地調査の結果を報告する。 青谷寺現在の青谷寺は大阪府柏原市の青谷に存在する。『柏原町史』第三・名勝編(柏原町史刊行会、一九五五年)に「創建不詳、もと浄土宗の一草庵ありしといふ。後堀河天皇の貞応の頃、北面武士某出家して草庵に入る。堂塔を建立し、真言宗に転じ、北峯山青谷寺と称せりといふ。」と紹介されている。『柏原市史』(柏原市史編纂委員会、一九六六年)によると、もとは青谷大池の傍に建つ金山彦神社の西に接しており、同社の別当であったが、江戸時代中頃に現在地に移ったと推定されている。興味深いのは、草庵が貞応の頃(一二二二〜一二二三年)に青谷寺と称されるようになったということである。この青谷寺に関する記述が正しく、諸山縁起が奥書の通り慶政所持のものであれば『諸山縁起』の成立は、貞応年間から慶政が没する一二六八年の間に絞られることになる。 中山寺不明。桜井徳太郎氏は青谷から信貴山に至る雁多尾畑に存在していたのではないかと推察している。 信貴山信貴山は奈良県生駒郡平群町の信貴山朝護孫子寺にあたる。寺伝によると聖徳太子が物部守屋との戦いにて毘沙門天王に戦勝祈願を行ったとされ、戦いに勝利した太子が毘沙門天王を祀り「信ずべし、貴ぶべき山」として信貴山と名付けたという。平安時代、勅命により命蓮上人が醍醐天皇の病気平癒を祈願して回復したことにより「朝廟安穏、守護国土、子孫長久」の祈願所として「朝護孫子寺」の勅号を賜る。 往生院生駒山西側の中腹にあった河内往生院(大阪府東大阪市)であるとみられる。もと六万寺という古代寺院があったとされ、往生院はその一院であったといわれる。 長暦年中(一〇三七〜一〇四〇年)に河内国石川出身の安助上人が、同国高安郡の川瀬吉松という老人の帰依によって一宇を建立したとされ、安助の没後、長久三年(一〇四二)に往生院と称される。『大阪の修験と西方浄土』(高槻市立しろあと歴史館、二〇一五年) 楠木正行が貞和四年に河内往生院に陣を構え、四條縄手の戦いで、金堂などが焼失し、さらに戦国時代には兵火に巻き込まれ荒廃するが、江戸時代になって鷹司信房により金堂が復興され、現在の往生院六萬寺の基礎が作られる。『夕日のかなたに見た浄土』(往生院六萬寺、二〇一〇年) 現境内の北には旧往生院金堂の跡地を示す石碑が建つ。現在の往生院六萬寺では河内往生院金堂の阿弥陀如来像が祀られている。 下津村 下津村という地名は不明であるが、葛城手日記では「シモツフラ楉藏神感寺」とあり、かつて尾根付近に存在した神感寺(大阪府東大阪市)の名が記されている。 髪切 髪切山慈光寺(大阪府東大阪市)のことであり、山号は役行者が捕えた鬼の髪を切り落とした伝承にちなむ。毎年三月の戸開式では護摩が焚かれる。 生馬現在遊園地となっている生駒山頂を指すのか、生馬仙坊といわれ、火葬された行基の遺骨が埋納された竹林寺を指すのか不明である。 鬼取寺役行者に従った鬼の夫婦が捕えられた地は薬師山鶴林寺(奈良県生駒市)であり、江戸時代に鶴林寺は現在の地へと場所が移り、山号が鬼取山鶴林寺(奈良県生駒市)となるが、天文二年の蓮上院記録の「諸山書状上處」(辻善之助編『多聞院日記』第五巻、角川書店、一九六七年)には「鶴林寺鬼取」とあり、場所が移る以前から鬼取と呼ばれていたとみえる。 田原田原という地名は大阪府四条畷市から奈良県生駒市に跨って存在している。葛城手日記には田原岩屋とあり、168号線沿いにある田原の岩屋口を上った岩蔵寺(奈良県生駒市)であると思われる。境内には巨大な岩蔵を祀り、役行者像を彫った石や十三仏種子板碑などがある。 岩船国道一六八号線に沿った大阪府交野市の岩船神社とみられる。葛城手日記には記載されていない。物部氏の祖、饒速日命が降臨した地であり、日本で最初の天孫降臨の地である。饒速日命が降臨した際に乗っていたとされる岩船は御神体として祀られている巨石である。境内の巨石が連なる岩窟巡りを行うことができ、案内板には修験の行場として知られていたことが説明されている。 師子石屋 「葛城手日記」では師子岩屋と記され、獅子窟寺(大阪府交野市)とみられる。 金剛寺『交野市史』「交野市史編纂委員会、一九八一年)によれば大阪府交野市の傍示に地名として残り、野外活動センターの西あたりが金剛寺のあった場所だといわれる。 甲尾 交野市史によれば交野山に鎌倉時代から室町時代にかけて存在した岩倉開元寺(大阪府交野市)のこととされる。交野山山頂には巨大な磐座があり、梵字のサが刻まれていることから観音石といわれる。観音石に穿たれた穴から寛文十年(一六七〇)の銘文がある銅版が発見され、江戸時代に實傳という僧によって開元寺が再興され観音石に梵字が刻まれたことが記されている。 高峯 交野市史によれば津田城跡付近だったといわれる。津田城跡は現在の国見山付近(大阪府枚方市)にあたる。 波多寺交野市史によれば大阪府枚方市の幡多山尊延寺であるとされる。不動堂には五大明王を祀り、境内には役行者の石像がある。 田寺不明。尊延寺から石清水八幡宮までの間に田寺という寺院は見当たらない。葛城手日記では田九十とされており、九十という字に注目すると、石清水八幡宮の傍にある京都府八幡市の久修園院ではないかと思われるが、北峯宿に関連する記録はない。久修園院は神亀二年、淀川に山崎橋が渡された時、行基によって創建されたといわれる。 八幡 京都府八幡市の石清水八幡と見られる。 ・「教義の紹介」に戻る |