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北峯宿を歩く今号は、前回に紹介した北峯宿の、おそらく数百年ぶりとなる通し駈けの記録である。不明な点はいくつか残っているが、北峯宿がどのようなルートであるか全行程を約二十時間で辿ったものである。 大和川に面した河内堅上駅で下車して八時半より歩き始める。 駅前の坂を登って役行者の小堂を通り、十分程で一番目の宿、青谷寺に到着する。 続けて青谷大池の前にある金山彦神社に参る。社伝に、元々は八大金剛童子社と呼ばれていたが、明治八年に金山彦神社と改められたと記されている。青谷寺は、この神社の西に接していたという。 桜井徳太郎氏は『諸山縁起』(桜井徳太郎ほか校注『寺社縁起』日本思想大系二十所収、岩波書店、一九七五年)の解説で二番目の宿、中山寺が雁多尾畑(かりんどばた)の辺りにあったのではないかと推測されている。 坂道の続く雁多尾畑(かりんどばた)の集落を登りきると風の神を祀る御座峯に到着する。 二時間近く車道を歩き、十時過ぎに三番目の宿、信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)に到着する。本堂からは奈良側の眺めが良い。朝護孫子寺の寺宝は信貴山縁起絵巻が有名だが、他に菊水紋の入った楠木正成(くすのきまさしげ)の兜なども伝わる。 朝護孫子寺からさらに十五分程登ると信貴山城跡に至る。 松永久秀が居を構えた信貴山城は信長との戦いによって天正五年(一五七七)に落城する。信貴山城跡から三十分程で高安城跡に到る。高安城は白村江の戦いに敗た後、天智天皇が唐や新羅の侵攻に備えて築いた城である。元々は信貴山城の地も高安城の範囲に含まれていたという。 崇仏派と排仏派の争いにおいて聖徳太子が戦勝祈願したところ、信貴山に毘沙門天が現れたという話は、この地を掌握することが戦いに大きく影響を与えることが認識されていたからと思われる。 信貴生駒スカイラインに沿って、生駒縦走路を歩き十一時三十分頃に十三峠を通過して四十分程で「府民の森なるかわ園地」にさしかかる。 縦走路から信貴生駒スカイラインに出て、少し引き返すと東側に夫婦岩への登り口がある。 夫婦岩は巨石が並んでいることから、そのように呼ばれており、この夫婦岩を目指して山へ登る人々も多くいる。 さらに北へ縦走路を進むと鳴川峠へ至る。鳴川峠は奈良側に下ると役行者が大峯より早く拓いたと伝わる千光寺や清滝石仏群があるが、峠を大阪側に下り、四番目の宿、河内往生院の金堂跡へ向かう。河内往生院は楠木正成の息子である正行(まさつら)が幼少時代に学び、北朝方との戦いにおいて本陣を構えた地である。跡地には石垣や瓦なども残り、かつての様子を偲ぶことができる。 河内往生院が戦乱によって荒廃した後、江戸時代になって再興された往生院六萬寺に参拝する。御住職の御厚意で金堂を参拝させて頂く。金堂には役行者像もお祀りされており、往生院と山岳修行との深い関わりを感じることができる。 生駒縦走路に登り返して、五番目の宿、じゃく蔵山神感寺(じゃくぞうざんしんかんじ)の跡地へ。神感寺も南北朝の戦いでは南朝方の城塞となり、戦火に焼かれいる。神感寺の大門瓦などの出土品は東大阪市立郷土博物館で閲覧可能である。 神感寺跡より北上し一五時過ぎに暗峠(くらがりとうげ)に至る。 この道は暗越奈良街道と呼ばれ、難波から玉造稲荷神社、枚岡神社、暗峠、竹林寺、垂仁天皇陵、喜光寺、平城京を経て春日大社を繋いでおり、現在の国道三〇八号線とほぼ重なる。 のちに役行者に従うことになった鬼の夫婦が出没していたのが暗峠付近だと伝えられている。 暗峠から北西にある六番目の宿、髪切山慈光寺(こぎりさんじこうじ)へは十五分程度である。役行者が捕えた鬼の夫婦の髪を切り落としたことから髪切山の山号がある。鎌倉時代に鋳造された鐘の銘文には「葛木北峯」の文字が入っている。 慈光寺を出て生駒山頂に向かう登り坂の途中に久曽麻留石(くそまるいし)が現れる。この石は役行者が鬼の夫婦の髪を切り落とした時に使用した刃物を研いだ石であるとも、この石の上で髪を切り落としたとも伝わる。 坂を登りきると、家族連れで賑わう生駒山頂遊園地がある。山頂遊園地内には生駒山の最高地点(六四二m)がある。 先程通過した暗峠を奈良側に下ると、麓に往いこまにいます馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)や、行基が壮年期に住した生馬仙坊とされる竹林寺があり、それらの地を「生馬」と捉えることもできるが、今回の行程では、生駒山頂を七番目の宿「生馬」としておくことにする。 生駒山頂に十六時に到達し、遊園地の南にある鳥居をくぐって、しばらく階段を下り、八番目の宿、「鬼取山」(旧鶴林寺)へ向かう。 境内は広く、石垣なども残されている。近年まで滝行が行われていたと思われる薬師の滝があるが、水は枯れている。旧鶴林寺は役行者が鬼の夫婦を捕えた地とされているが、現在の鶴林寺は東側に直線距離、数百メートルの位置にある。江戸時代に生駒の聖天さんとして有名な宝山寺から教弘寺、現在の鶴林寺を経て前述の千光寺へ至る庄兵衛道という修験に関する寺院を繋ぐ行者道が整備されたが、現在では道が荒れている。 旧鶴林寺からは山頂遊園地に戻り「府民の森ぬかた園地」の遊歩道へ向かう。山頂遊園地の閉園時間十七時がせまり、急いで遊園地を抜ける。 遊歩道を北進すると二十分程で燈籠があるゲートに至る。ゲート付近の立体交差を潜って奈良側に下り、生駒山麓公園から生駒市立俵口小学校を経て一六八号線に出る。 南田原の一六八号線沿いにある岩屋口バス停を東に入りバイパスを横断して石段を登ったところにある岩蔵寺が九番目の宿「田原」(田原岩屋)と思われる。ここには寺名の通り巨石が祀られている。名称や位置、役行者の石像もあることから、この地が田原岩屋であろう。 一六八号線と一六三号線の交差点を経て、十九時過ぎに九番目の宿「石船」(磐船神社)に到着する。この地は物部氏の祖神、饒速日命(にぎはやひのみこと)が降臨したとされる地であり、饒速日命が乗ってきたとされる天の磐船が御神体として祀られている。饒速日命が天の磐船に乗って降臨した際「そらみつ大和国」と言ったことが、現在この国を「やまと」という起源であると言われる。 境内には磐船以外にも巨石が連なり、日中は受付を済ませれば岩窟巡りを行うことができる。 磐船神社から府民の森くろんど園地へ向かう。園地内にはいくつもの道があり、近くには月輪の滝という行場もある。 園地から途中、八丈岩と呼ばれる巨石を通過して二十時四十分頃に十一番目の宿「師子石屋」獅子窟寺へ抜ける。 獅子窟寺は役行者開基と伝えられ、本尊は国宝の薬師如来像である。境内には巨石が立ち並び、行場の空気を感じることができる。 獅子窟寺から再び、くろんど園地へ戻り、傍示(ほうじ)の里を抜けて龍王山東の十二番目の宿、金剛寺跡へ。傍示は昼間に歩くと田んぼや竹林の美しい田園地帯であり、ハイキングコースとして人気がある。 二十二時を過ぎた頃に十三番目の宿、「甲尾」交野山(三四一m)の開元寺跡に至る。この地にある巨大な石蔵からは視界を遮るものがなく全方向を眺めることができる。夜間では特に大阪側に夜景が見渡せる。この石蔵には梵字の「サ」が彫られており、「サ」の字が観音を意味することから観音石と呼ばれている。 近辺には源氏の滝という行場があり、江戸時代に修験者が修行をしていたと伝えられている。 交野市史によれば十四番目の宿「高峯」が津田城付近だったと書かれており、津田城は国見山の辺りにあったといわれる。京田辺市には高ヶ峯という山があるが、今回は交野市史の記述を基に、国見山を高峯として設定する。 国見山からは、ハイキングコースの分岐を尊延寺方面に進む。道が荒れているが住宅街まで抜け、〇時半頃に十五番目の宿「波多寺」幡多山尊延寺に至る。境内には役行者石像がある。 尊延寺からは町中を進み、東高野街道に出て洞ヶ峠(ほらがとうげ)に至る。 今回、宿次第に記される十六番目の宿「田寺」や「田九十」という地は発見することができなかった。「田九十」の読み方に注目したところ、久修園院(くしゅうおんいん)という寺が、かつて淀川に架けられていた山崎橋の南岸付近にあることを知り、字の読みが似ていることや、行基開基で創建が古く、八幡宮も含めて地理的要衝であること、十五番目と十七番目の宿の間に向かうことができることから、十六番目の宿を久修園院として参拝することにした。もちろん、北峯宿と関連する記録などは一切なく、実際の十六番目の宿は不明のままである。 久修園院へは四時半頃に着き、門が閉まっていたので外から参拝して、最終地の石清水八幡宮に向かった。 住宅街を抜けて八幡宮へ到着したのは朝の五時過ぎであった。開門の五時半を待って参拝する。これによって今回の北峯宿の通し駈けを終了とした。 北峯宿の大部分はハイキングコースとして人工的に整備されていたり、舗装されているところも多い。しかし、古代から何度、戦乱が起こっても、敗者も勝者も関係なく、山や巨石などの自然を神聖なものと感じて生きてきた人々の信仰や息吹に触れてみようと思う人には是非歩いてもらいたい道である。 ・「教義の紹介」に戻る |