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熊野への道熊野御幸熊野では深い山々や、雄大な川、巨石、大瀑布などに対する古代からの自然崇拝が盛んであったが、仏教の伝来によって阿弥陀如来や観音菩薩の浄土信仰が融合し、聖地として発展していった。熊野に対する信仰の高まりは都にも及び、平安時代になって上皇や法皇、女院の熊野御幸が始まる。上皇、法皇の熊野御幸は延喜七年(九〇七)の宇多上皇、八十年後の永延元年(九八七)に花山法皇がそれぞれ一回ずつ行った後、寛治四年(一〇一九)白河上皇から十二回、鳥羽上皇二十三回、崇徳上皇一回、後白河法皇三十三(三十四)回、後鳥羽上皇二十八回と過熱したのち、後嵯峨上皇二回、弘安四年(一二八一)の亀山上皇一回と約百回を数えた。 京都からの熊野参詣は、淀川を下り、窪津に上陸して天王寺、住吉を経て和泉を南下し、雄ノ山峠を越えて紀伊国に入り、紀ノ川を渡って日前宮、藤白王子、日高川を越えて田辺から中辺路に入り、近露王子を経て本宮へ向かうのが一般的だった。 村山修一氏が、『中右記』で藤原宗忠が参詣の途中に出会った人々の記録の中で面白いとして「天仁二年(一一〇九)十月二十四日近露王子に参る手前で柚多輪大坂を過ぎたとき、この坂に大木があって蛇がこれに懸っているような形をしていたのを見たが、これはむかし女人が化して蛇になった名残であるとの伝説をきいている。これは恐らく後世有名になった安珍清姫の道成寺縁起譚の古い形をさすのであろう」(村山修一『山伏の歴史』塙書房、一九七〇年)と紹介している。 道中、各所の王子と呼ばれる地などでは、祓や奉幣、経供養などを行い、河川や海辺では心身を清めるために垢離掻きを行った。このような宗教的儀礼は先逹を務めた修験者達の指示のもとに行われた。 三井寺と熊野修験
三井寺の法印権大僧都増誉は寛治四年(一〇九〇)白河上皇の熊野御幸において先逹を務め、初代熊野三山検校職に補任され、白河に聖護院(当初 白河房)を創建する。 後白河法皇と熊野楊枝京都には社伝によると弘仁二年(八一一)に創建されたという熊野神社があるが、後白河法皇は永暦元年(一一六〇)六月に現在の若王子神社の地に熊野那智権現を勧請し、同年、新熊野神社を法住寺殿の鎮守社として創建した。初代新熊野検校には後白河法皇の熊野御幸で先逹を務めた三井寺の覚讃が補任された。また、法皇は長寛二年(一一六五)に法住寺殿の仏堂として三十三間堂を建立している。 三十三間堂は正式には蓮華王院の本堂であり、千手観音の別称の蓮華王が名前の由来であるが、三重県紀和町の楊枝薬師堂には三十三間堂に纏わる話が伝えられている。 長年頭痛に悩まされていた法皇が霊夢によって、自分の前世は蓮華房という僧であり、その髑髏が熊野の岩田川の底で柳の木に引っ掛かり、頭痛の原因になっていることを知る。 川を調べさせると髑髏が見つかったので、髑髏を千手観音に塗りこめ、その柳を伐って京都に運び三十三間堂の梁に使ったところ、法皇の頭痛は平癒したという。 柳を伐り倒した跡には「頭痛山平癒寺」という寺院が建立され、楊枝薬師堂の前身となったという。 この楊枝薬師堂の由来からは、さらに話が生まれている。 おりゅうという柳の精が、平太郎という男と結婚して緑丸という子供をもうけるが、おりゅうの正体である柳の巨樹が法皇の発願により三十三間堂の棟木として伐り倒されて京へ運ばれることになる。 自分の本体である柳に斧が打ち込まれ、激痛に呻くおりゅうは、自分の正体を平太郎にうちあけ、姿を消す。 伐り倒された柳は新宮まで運ばれることになったが、平太郎の家の前で全く動かなくなった。平太郎は、柳が自分の妻で別れを惜しんでいるのだと役人に事情をうちあけ、緑丸が音頭をとったところ、柳は再び動き出し、無事に京に運ばれて三十三間堂が完成したという。 この話は「三十三間堂棟由来」として文楽や歌舞伎の演目になっている。人の社会と神仏の世界をつなぐ芸能は熊野との関わりも多く見られる。 能楽と修験道新熊野神社の境内で応安七(一三七四) 室町幕府三代将軍の足利義満は「結崎座」の観世清次と息子の藤若丸の猿楽を鑑賞して感動し、同朋衆に加え、観阿弥、世阿弥と名乗らせたことから、新熊野神社は能楽発祥の地といわれる。新熊野の山伏達の葛城修行に題材をとった演目「谷行」が二〇一八年、金剛流能楽師宇高竜成師の主催する「竜成の会」で上演された。 葛城の嶺を知ってもらうことで、生活をとりまく自然や、そこから生まれ育まれてきた文化を社会が大切に護り次世代に継承されていくようにとの願いを込めて上演された「谷行」は能楽師の方々の磨かれた技と魂によって満員盛況の舞台となった。 二〇一九年に宇高師は「竜成の会」で能楽師としての登竜門といわれる「道成寺」を上演される。「道成寺」は熊野へ修行に訪れる山伏、安珍と清姫の物語から後日譚として生まれた演目である。道成寺もまた文楽や歌舞伎の題材となっている。 江戸時代に道成寺の修理を行った紀伊徳川家初代、徳川頼宣は熊野古道の整備に力を入れ、熊野詣は庶民に流行した。 このように各時代に歩き継がれたことによって、道は生き続けて文化を育み、二〇〇四年、地元の方々と行政が協力した努力が実を結び、熊野三山や熊野古道は「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されることにも繋がっていったといえる。 現在では、海外から熊野古道を歩きに来る旅行者も年々増加している。経済大国といわれる日本で、古代より、自然に畏敬の念を持って継承されてきた文化の奥の深さが海外の旅行者に神秘的な感動を与えているという。 二〇一六年に闘鶏神社は世界遺産に追加登録された。闘鶏神社の社殿裏の仮庵山を「熊野植物研究の中心基礎点」とし、神社合祀による森林伐採に敢然と反対して、近代日本の自然保護活動の始まりといわれる南方熊楠は「自然の破壊は人間の破壊につながる」という言葉を遺している。 ・「教義の紹介」に戻る |