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天地の峯と甘露の水地域の祈りと山伏の道葛城の峰を歩いていると、水に対する信仰が様々な場所でみられる。和歌山県かつらぎ町には、三国山を源流とする穴伏川から取水した水を近隣の農地に供給する灌漑水路があり、鎌倉時代に文覚上人が造ったという伝承から、文覚井とよばれ、現在も使用されている。 この穴伏川の上流には文蔵の瀧という地元の人々が雨乞いをする滝があり、修験者の行場としても知られている。 人々が生活や農業に不可欠の水を求めて灌漑事業を行ったことや、山の神に祈りを捧げてきた深い信仰により、社会にとって山からもたらされる水がどれほど重要な意味があり続けてきたか窺い知ることができる。 地域の祈りと法華経の信仰が融合した葛城の峰は、紀州、和泉、河内、大和を繋ぐ交通、流通の道が張り巡らされており、その地理的条件から熊野参詣や西国巡礼の道とも交差したり、重なる道程がある。修験者たちが葛城修行のみならず熊野参詣の先逹として和泉から雄ノ山峠を越えて紀州へ入る時や、西国巡礼で紀州から和泉へ向かう際にも歩かれ、長い期間をかけて様々な側面を持った道へと発展した。 『寺門高僧記』(『續群書類從』第二十八輯上)には三井寺の行尊や覚忠が行った西国巡礼の記録がある。行尊の西国巡礼では、長谷寺から始まり、那智が六番目、槇尾寺(施福寺)が七番目という順番になっており、紀伊から和泉へ抜ける道として七越峠から檜原越を通って槇尾寺に出た可能性も考えられる。 これらの道は、庶民にも熊野詣や西国巡礼が流行するようになって、地域の住民や修験者だけでなく、遠方からの旅人達にも歩かれるようになり、交通の要衝となっていった。とくに紀伊と和泉を七越峠、三国山、槇尾山経由で繋ぐ道は西国巡礼や高野山、堀越観音へ詣でる人々に歩き継がれ、現在でも多くの道標や丁石等が残る。 一乗山七越寺
三国山は、一乗山、妙法山、天地の峯とも呼ばれ、葛城七大金剛童子のうち経護童子の鎮座する地とされる。 雨壺七越寺がいつまで存在していたのかということや、経塚の位置を明らかにすることが困難だとしても、一乗山に七越寺があり、灌頂が行われていたならば、寺院の維持や、灌頂に不可欠の水が一乗山の近辺に存在していたはずである。諸山縁起、葛城嶺中記、葛嶺雑記などの七越寺の記録を見ると、雨壺ともいわれる甘露水の存在が鎌倉時代から室町時代を経て江戸時代末まで記されている。 また、一八五三年の『西国三十三所名所圖會』(臨川書店、二〇〇一年)にも「雨壺行所」として紹介されている。 葛嶺雑記によれば、雨壺も小鬼(神野)の支配するところであったというが、今では神野の人達もその場所を知らないということであった。(『葛嶺雑記』で弥仙にひとしかりしといわれる一乗山の雨壺を支配する神野では、天女山正楽寺にて弥仙と同じく水の神である弁財天が祀られている。) 雨壺に関する資料を確認してみると父鬼(大阪府和泉市)の住民が、昭和初年の大旱天のとき多くの村人達が太鼓をかつぎ、打ち鳴らしながら、雨壺まで長蛇の列をつくって「雨たもれ」と雨乞い祈願をし、雨乞い踊りを奉納したとの記述があった。(『父鬼 郷土の記録』(和泉市父鬼こども会、一九八二年)) 「あまごいどのの せんすいに こたかがみよと オンさえずるに さえずるに はあん あまぶた アォンあけてのもどりて 見ればョー あめがふる」 雨壺の水は失われた七越寺の潅頂にも使用され、人々の生活に欠かせない水に祈りを捧げる地域の信仰を生み、歴史や文化を育んできたと考えられる。 三国山の信仰をみる上で、本来、雨壺の水が最も重要であると思われ、存在を確認する必要性を感じ、山頂付近から、または麓から何度も探索を繰り返し、二〇一九年一月にようやく発見に至った。 鎌倉時代から記録され続けてきたからには、今でも水は枯れていないだろうと想像していた通り、雨壺は現在も水を湛えていた。三国山は雨壺を有するために信仰も深まり、飲料や儀礼に用いられる水が確保されることから七越寺も建立され大寺に発展したのであろう。 文化の源泉
西国街道と同じく修験者や多くの旅人に歩かれた熊野への参詣道もまた葛城の道と雄ノ山峠の辺りで交差する。この付近にも地域の暮らしを支える水源があり、地域の人々や山伏が祈りを捧げてきた滝を祀る神社も存在しているが、近年、葛城の峰は都市圏に近いせいもあって、この近辺や複数の広い範囲で開発計画が持ち上がっている。これらの開発は様々な文化を育んできた歴史を持つ葛城の峰の山容水態を破壊し、人々の生活に不可欠の水質に大きな影響が出ると懸念されている。 ・「教義の紹介」に戻る |