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弥勒の浄土 笠置山

笠置山の信仰

 三井寺で出家した慶政が所持していた「諸山縁起」(宮内庁書陵部所蔵)には大峯、葛城とともに一代峯として京都府南東部に位置する笠置山(京都府相楽郡笠置町)のことが記されている。

笠置山の信仰
 笠置山には高さ十五メートルに及ぶ巨大な花崗岩の一枚岩が存在し、この大岩壁の前から銅剣を模した石剣(笠置寺所蔵)が出土していることから古代より信仰の対象となっていたとみられている。

笠置山の信仰
 縁起では白鳳時代、この大岩壁に弥勒菩薩の尊像が刻まれて笠置寺が創建され、以来、笠置寺は弥勒信仰の中心となっていく。
 天平時代には木津川の水運を利用して東大寺大仏殿造営の用材を伊賀から奈良に運ぼうとしたが、岩が木津川の表面を覆っていて筏を流すことができなかったために良弁が笠置寺の千手窟に籠って秘法を行ったところ、大雨が降って岩山を崩し流したので、滞りなく用材を運ぶことができたという。

笠置山の信仰

 千手窟には良弁の高弟実忠の伝承もあり、実忠は千手窟より都率天の内院に至って、聖衆の行法を拝し、この行法を人間界に持ちかえって始められたのが東大寺の不退の行法として名高い十一面悔過(修二會)であると伝えられている。このような説話からも笠置と奈良は宗教者にとって特別な関係であったとみられている。
 東大寺の良弁や実忠が訪れたという笠置山には役行者や金峯山椿木寺の道賢、空海も修行に訪れたとの伝承もある。また修行者達だけでなく、末法思想の背景もあって藤原道長、藤原頼通、後白河法皇も参詣したと記され、弥勒磨崖仏の近辺からは平安時代に埋納された経筒(笠置寺所蔵)も出土しており、弥勒信仰の聖地として広く世に知られていたことがわかる。

縁起に説かれる道

 笠置寺縁起に説かれる役行者の伝説では「役優婆塞、白鳳十二年壬申卯月廿四日登当山詣千手窟、則北峯一代之峯始行給者也、山城国光明山寺為一之宿、当山弥勒之岡、一代之頂上為秘所、終届大和国泊瀬之霊峯者也」とあり、一代之峯(笠置山)から泊瀬之霊峯(初瀬山 奈良県桜井市)に至る修行の道があったことが記されている。
 一ノ宿としての名が挙げられている光明山寺は京都府木津川市に存在していた山岳寺院とみられている。

笠置山の信仰
 平安時代末、諸国の源氏に平家打倒の令旨を発した以仁王は、平家から逃れて如意越道で三井寺に入り、源頼政や三井寺の僧兵と共に興福寺を目指すが、宇治の平等院で頼政は果て、以仁王は現在の木津川市で、平家によって三井寺の筒井淨妙と共に討たれてしまう。
 この時、以仁王が討たれたのが光明山寺の鳥居の前であったといわれる。
 この地には以仁王の墓、宇治橋で奮戦した筒井淨妙の塚がある。
 一ノ宿とされる光明山寺から笠置寺までのルートも全く不明であるが、両寺の間には三井寺の黄不動との像容の類似が指摘される不動明王像を祀る神童寺や海住山寺などの有名な山岳寺院が存在している。

鎌倉時代の笠置寺

 建久三年(一一九二)に興福寺から春日信仰に厚い貞慶が笠置寺に入り、般若台六角堂を建立、春日大明神を勧請するなど、寺域の整備を行った。
 源平の戦いによって焼かれた東大寺を勧進職として再建にあたった重源が、この頃(建久七年)に笠置寺般若台に寄進した梵鐘が笠置寺には現存しており、重源は葛城や大峯に修行した僧としての一面も持つが、この梵鐘から貞慶、山岳修行の地である笠置寺と深い繋がりがあったことが知られている。
 「両峯問答秘鈔上」には晦日山伏についての記述があり、その中に覚深という行者が記されている。
 「建久四年癸丑。覺深。上野公。公月房。法橋。所司。贈僧正。那智岩屋籠。葛木籠。大峯順三十三度。葛木十餘度。一代北峯數度。櫻井法親王第三度御先達。建保六年生年八十六卒。逆三十三度。」『両峯問答秘鈔上』(【修験道章疏】日本大藏経編纂會名著出版一九八五年)
 櫻井法親王は熊野三山検校、三井長吏を務めた覚仁のことであり、葛城や大峯で相当な修行を積んでいた覚深は櫻井法親王の先逹に相応しい経歴であったことがわかる。
 覚深の経歴をみると貞慶が笠置寺に入った頃に活動しており、葛城や大峯での修行の他に一代北峯数度と記されている。
 覚深が一代峯だけで修行したのか、泊瀬之峯までの修行道を歩いたのかは不明であるが、笠置山に修行に入ったことは確かであると思われる。
 貞慶が寺域を整備した頃、笠置寺は隆盛し、覚深のような修行者も多く訪れたと思われるが、笠置寺は元弘の役で炎上し、本尊の弥勒磨崖仏も焼失する。
 元弘の役によって笠置寺に存在した記録が失われたために笠置寺の歴史、修行者達の活動も謎に包まれてしまう。

一代峯と泊瀬峯

 これまで当連載では大峯や葛城を中心としており笠置山の修験については触れていなかったが、自然崇拝、弥勒信仰の聖地として栄えた笠置山には、胎内潜りなどの行場があるだけでなく、笠置寺縁起(笠置寺所蔵)によれば泊瀬峯(初瀬山)へ届く修行の道があったとされ、諸山縁起では一代峯縁起の中で天台密教によって金剛界峯、胎藏界峯、蘇悉地峯のうち笠置山を蘇悉地峯として三部秘法峯の一つに位置付けており、峯間宿所という三十の宿所が記されている。
 宿所には距離と東や西という方角が付け加えられており、一体どのように読み解くかは不明であるが、これは笠置から東西線上を行き来するのではなく、笠置山から泊瀬峯までの道筋を移動する距離と道筋の東西どちらに、その宿があるかを示したものではないかと思われる。
 峯間の三十の宿所に関しては名称から現在の地を推測することは、ほとんど不可能であるが、笠置寺縁起に説かれるように笠置山から泊瀬峯まで、現在は行われていない修行が行われていたことは事実であるとみられる。
 次号では、この行程がどのようなものであったか推測を試みる。

一乗山 雨壺
(今号の記事作成においては鹿鷺山笠置寺様から資料を御提供頂き、様々な御教示を賜りました。厚く御礼申し上げます)








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