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光明山寺から笠置寺への道

神童寺・海住山寺経由の道

三井寺で出家した慶政が所持していた鎌倉時代の「諸山縁起」には笠置山が一代峯として説かれている。

光明山寺から笠置寺への道<

「笠置寺縁起」にも一代峯より初瀬山まで続く修行の道について触れられ、この一代峯のルートが元々は光明山寺を一ノ宿として始まっていたものであることが記されている。

「役優婆塞、白鳳十二年壬卯月廿四日登当山詣千手窟、則北峯一代之峯始行給者也、山城国光明山寺為一之宿、当山弥勒之岡、一代之頂上為秘所、終届大和国泊瀬之霊峯者也」(笠置寺縁起 笠置寺所蔵)一ノ宿として記されるのは京都府木津川市に東大寺の別所として創建された山岳寺院の光明山寺であったと考えられている。

光明山寺には多様な僧が籠ったことで知られ、元永元年(一一一八)と元永二年(一一一九)に白河上皇の熊野御幸で先逹を務めた三井寺の頼基もこの寺に籠っている。

前号では笠置寺縁起に記される光明山寺から笠置寺までの道程を推測し、有王経由と神童寺・海住山寺経由の二通りのルートを想定したが、令和二年二月二日にそのうちの神童寺・海住山寺経由のルートで光明山寺から笠置寺まで通駈を行った。

笠置寺縁起に記される光明山寺から笠置寺までの道は、途中の通過地点に関する情報や記録などは一切存在せず、歴史上、実際に修行として歩かれたかどうかも不明である。

両寺が東大寺の末寺であった時代があり、中間に位置する海住山寺の前身とされる観音寺が良弁開基の伝承があることなどから、奈良の僧侶達が山中の道を通って行き来したのであれば、観音寺(海住山寺)を経由していたとも考えられる。

光明山寺から笠置寺への道<

また、神童寺は、光明山寺から現代の舗装道路では一時間程であり、距離的には修行者達の往来があったとしても不自然ではない。

山岳寺院として有名な神童寺と海住山寺の間には山中に直通ルートがあり、ルートの麓に流れる木津川に沿った国道一六三号線は、古代から大和方面と伊賀方面を結ぶ幹線道路であった。

以上のことが、それほど特色の見られない有王経由ではなく、山岳信仰の文化が鮮明な神童寺・海住山寺を経由する行程を選んだ理由である。


光明山寺から海住山寺へ

平安時代末、平家打倒の令旨を発した以仁王が三井寺から興福寺に向かう途中で討たれたのは、光明山寺の鳥居があった地とされる。

光明山寺から笠置寺への道<

この地にある高倉神社を八時に出て二十分程で蟹満寺に至る。

普門山蟹満寺は、白鳳時代の作といわれる威風堂々とした国宝の釈迦如来坐像と蟹満寺縁起が有名であり、白鳳時代に創建されたと考えられている。この釈迦如来坐像については元々の場所に諸説があり、蟹満寺は光明山寺の堂舎の一部であったともいわれる。

蟹満寺からは光明山寺の参道であったといわれる天神川沿いの道を登って車谷を抜けていくと現在は田畑の広がっている光明山寺の跡地に到着する。

光明山寺から笠置寺への道<

光明山寺跡の南に位置する神童寺までは舗装道路を通り、一時間程で到着する。北吉野山神童寺は推古天皇四年(五九六)に聖徳太子が開創したと伝えられ、のちに役行者が二人の神童と共に彫ったと伝承される蔵王権現が本尊であり、三井寺の黄不動と像容の類似が指摘される不動明王像も広く知られている。収蔵庫には平安時代などの仏像が多く、北吉野山として山岳信仰が盛んであったことが、現在でも感じられる。

神童寺の前を進んで天神社付近から山の中へ入り、古道を伝っていくと二十分程で鳶ヶ城跡との分岐に至る。鳶ヶ城跡からは木津川方面の眺望が広がる。古道に戻ってさらに進むと森林公園との分岐を経て十一時頃に補陀洛山海住山寺に到着する。

天平七年(七三五)に聖武天皇の勅願によって良弁が、この地に藤尾山観音寺を創建したとされるが、保延三年(一一三七)に全山焼失し、承元二年(一二〇八)に笠置寺から観音寺跡に貞慶が入って再興したのが海住山寺であると伝えられている。

海住山寺は本尊の十一面観音像や、貞慶の念持仏である十一面観音像、四天王立像、鎌倉時代の五重塔など、優れた建築や彫刻が風光明媚な地に存在し、多くの人の心を惹きつけている。

海住山寺から笠置寺へ

神童寺からの歩きやすい道と違って、海住山寺から先は、道がなく進むことができない。一旦、境内を出て東側の砂防ダムに沿って仏生寺山の道を登って行くと、過去に茶畑であった斜面に至る。この一帯には道がなく、茶畑跡に木々が立ち並んでいるため迷い易い。

茶畑跡の石垣などを頼りに注意しながら進んでいくと、現在も農道として使用されている道が現れ、茶畑を進んでいくと山中の古道に接続する。この道を進んでいくと京都府相楽郡の和束町に抜けることができる。この道は秋季の立入が禁止されており、進入することはできないので注意が必要である。

十三時頃に府道三二一号線へ抜け、約一時間で和束町の白栖橋へと至る。さらに一時間程、宇治木屋線を進むと国道一六三号線との合流地点に至り、木屋不動滝の登口が現れる。登口から五分程で熊野神社があり、さらに十分程登って十五時頃に不動瀧に到着する。この滝では現在、滝行が行われているが、いつから行場としての歴史があるのかは不明である。

不動瀧から折り返して、一六三号線に戻って東へ進む。交通量が多いにもかかわらず、この区間には歩道がないので、非常に危険である。一時間程歩くと笠置大橋に至り、木津川を渡って十六時頃に笠置山登口に至り、参道を登って行くと二十分程で笠置寺に到着する。笠置寺は、白鳳時代に笠置山の大岩壁に刻まれた弥勒菩薩を本尊として創建されたと伝えられ、奈良時代から多くの修行者が訪れて、平安時代にも都から貴人達の参詣を集め、弥勒菩薩の浄土として興隆する。

木津川流域の光を観る

前々回の笠置寺から長谷寺までのルートと同様に、今回歩いたルートも個人的な推測に基づいて設定したものであり、歴史的な記録や資料に基づいたものではない。

笠置寺縁起に説かれる光明山寺から笠置寺までの修行の道が、どのような行程であったのか、実際に修行として歩かれていたのかも不明である。

しかし木津川流域一帯に育まれた歴史や文化には驚くような深さがあり、それらを辿って歩くことでそれぞれの時代を生きた人々の足跡に触れることができる。

通行が困難である区間もあるが、有名な神童寺と海住山寺は寺院が素晴らしいだけでなく、両寺を結ぶ山中の道も、魅力的なルートである。光明山寺から歩かれ、また長谷寺へ続く修行の道の起点であったとされる笠置寺の大岩壁の前からは銅剣を模した石剣が出土していることから古代から信仰の地であったと考えられている。

弥勒菩薩像の姿は元弘の役によって焼失しているが、笠置寺の大岩壁の前に立つと、仏教伝来以前の古代信仰から弥勒信仰へと発展し、現在に至る歴史や、文化の深奥を感じることができる。








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