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アーネスト・F・フェノロサ

アーネスト・F・フェノロサは一八五三年、アメリカ東海岸のマサチューセッツ州に生まれる。 日本ではペリー総督率いる黒船四隻が浦賀沖にやってきて、通商条約の締結を迫る。 日本の伝統的な文化、芸術を正しく認識し「日本美術の恩人」と言われるフェノロサが生まれた頃、 まさに我が国は開国、攘夷(じょうい)に分かれ激動の幕末から維新へと向かう。

フェノロサ

フェノロサはハーバード大学で哲学を学んだ後、 エドワード・モースの紹介で明治十一年(一八七八)に来日、 政府お雇い外国人教師として東京帝国大学の教壇に立った。 若干二十五歳の 若さであった。

滞在中、京、奈良に足繁く通い、日本の美に触れ、のち岡倉天心とともに寺社、旧家の美術調査を行った。 また、フェノロサは天心とともに東京美術学校の設立に努めるが 明治二十三年ボストン美術館東洋部長に就任のため帰国する。

フェノロサは明治二十九年再来日し、メアリー夫人と三井寺、法明院を訪ねる。 法明院にはフェノロサが仏教に改宗したとき導師となった桜井敬徳師が住職として前任していた謂(いわ)れがある。 フェノロサと法明院の縁は、師弟の契りを交わした博物局長の町田久成との出会いで始まる。 桜井敬徳師はフェノロサを始め、町田久成やウイリアム・ビゲローも仏門入りへと導いた。

メアリー夫人

二度の法明院滞在中、フェノロサは茶室で寝起きし、客殿で訪れる人々をもてなした。 今もその客殿には彼が愛用したさまざまな遺品がある。 英国ジョンストン社製の地球儀、月の表面も観測できる フランスヴイヨン社製の望遠鏡、ランプ、蓄音機などが今も使用できるかのような状態で保存されている。


雪の法明院

フェノロサが寝起きして
いた「時雨亭」内部。

フェノロサが愛用していた
望遠鏡、地球儀

蓄音機など。

法明院の庭園からの眺めは雄大で、眼下に広がる琵琶湖、その向こうに三上山、遠くは伊吹連峰までもが望める。 遠く異国の地で琵琶湖に浮かぶ月影をフェノロサはどんな思いで眺めていたのだろうか。

明治の初期、富国強兵策をとる日本は欧州崇拝の機運が支配していた。 日本美術も例外ではなく、まさに存亡の危機に瀕していた。 奈良興福寺の五重の塔が、当時僅か十円で売りに出され、 北斎、歌麿の名画の価値もまったく顧みられなかった。 そのような中で「美術真説」「浮世絵史」「北斎画風変遷史」などの著書で日本の美術史を系統立て、 明治二十三年その功績を認められ勲三等を授与されている。

フェノロサは明治四十一年、ヨーロッパ旅行中にロンドンで急死する。

法明院庭園からの眺望

未亡人メアリーはニューヨークの山中商会(日本美術の輸出商)に連絡をとった。 遺体はロンドンで火葬し、遺髪を日本へ送り、法明院に埋葬して欲しいと依頼する。 翌年その費用を東京美術学校が拠出し、墓碑が完成した。 法明院庭園の奥にフェノロサの墓地がある。戒名「玄智院明徹諦信居士」である。
時代は巡り、昭和五十三年、フェノロサ夫人メアリーの孫、ウィンスロー夫人を招く。 「フェノロサ来日百周年記念展覧会」が大津市教育委員会と園城寺(三井寺)の主催で開催されたのである。 ボストン美術館の協力を得てフェノロサが収集した日本美術の傑作、貴重な資料などを展示。 多くの人々が訪れ、フェノロサの偉業を再確認する機会となった。

また、日本におけるフェノロサ研究の促進、研究者相互の親睦団体「日本フェノロサ学会」も設立され、 学会機関誌「LOTUS」が毎年発刊されている。 研究発表会、講演会などを開催し、フェノロサの足跡をたどり、今も正しい評価への研究は続けられている。

フェノロサの墓地






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