その頃、円空は三井寺に足繁く訪れ、元禄二年(1689)時の長吏、尊栄大僧正から
血脈(けちみゃく:師から弟子に授ける法統)を受ける。
また、美濃の国池尻にある自坊、弥勒寺を三井寺の末寺として召し加えられ、戦乱の大火で消失した弥勒寺の再興に努める。
弥勒寺の歴史は古く、壬申の乱までさかのぼる。美濃の国の豪族、
身毛君広(むけつきみひろ)は大海人王子(おおあまのおうじ:後の天武天皇)の側近として活躍。
壬申の乱後、その戦死者を弔うため、大和朝廷の援助を得て建立された。
当時の弥勒寺は、東に塔、西に金堂、背後に講堂を配する奈良法起寺(ほっきじ)式の伽藍配置の壮大な寺であった。
三井寺に残る七体の円空仏はいずれも、善女竜王像である。
現在は国宝金堂の後陣に安置され、訪れる人に静かに微笑んでいる。
その中で、一番大きな竜王像(70.5cm)の両手を合された下あたりから足にかけて、
鉈で大きく打ちつけた傷跡のようなものが見える。
他の六体のような力強く、単純で整理された衣の線は無く、不規則で乱暴な鉈跡である。
円空は三井寺で血脈を受け、その答礼に仏を彫った。
木に向かい、念仏を唱え、鉈を振る。
この一番大きな竜王像は、その彫られる像の下に敷かれた木材ではなかったのか。
他の六体はこの木材の上で、彫られ、刻まれ、完成した。
乱暴な鉈跡が残ったまま、最後にこの竜王像をも彫ったのではないだろうか。
木のかけらからなる小端仏(こっぱぶつ)や、傷つき廃材としてしか価値の無い木からも仏の魂を感じ、
命を吹き込む………。円空仏が円空仏と言われる所以である。
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