三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、
代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。
本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。
道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、
とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。
それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。
他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている。
文禄の闕所に際しては道阿弥の弟、暹実とともに三井寺復興に奔走することになる。
現在の国宝光浄院客殿こそ道阿弥の建立によるものである。まさに三井寺復興の大恩人であった。
三井寺の伽藍も復興され家督も無事に景以に譲る目安がついた慶長八年(1603)12月20日、
山岡道阿弥は波乱の生涯を閉じた。享年六十四歳であった。ある時は三井寺の高僧、またある時は戦略にたけた武将として、
信長、秀吉、家康と権力者が変わっても奇跡的に戦乱の世を生き抜いた山岡道阿弥という人の魅力は何だったのだろうか。
今年三月、道阿弥が眠る京都、東山知恩院の墓所を訪ねた。
知恩院境内、信重院の御母堂様に道阿弥の墓所まで案内していただいた。
知恩院の黒門を通り、浄土宗の開祖法然上人をまつる御影堂の奥をすぎ、小高い山を登る。
幾箇所もの墓地を通り抜け、市内を一望する東山の山麓にへばり付くようにそれはあった。
われわれ取材班だけではとうてい見つける事が困難な場所であった。
また、我々が通った黒門は道阿弥が伏見城より知恩院に寄進したと伝えられており、
信重院には三井寺と同様、位牌が安置され手厚く供養されている。知恩院にとっても、大切な人物であった。
いづれにしても道阿弥が復興した光浄院は、それ以降変わることなく端正な姿を今に伝えている。
争いもなく平和な時が四百年も続いたのは三井寺の歴史始まって以来ではないだろうか。
これからもそんな時が永遠に続くことを道阿弥は願っているに違いない。
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