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三井寺・光浄院を復興した道阿弥の足跡を検証する。


不死鳥の寺、三井寺は永遠に生き続ける。

三井寺は何度も焼き討ちにあっている。十世紀後半頃から天台座主の職や戒壇建立問題に端を発した、 比叡山延暦寺(山門派)と三井寺(寺門派)との確執は平安末から鎌倉時代にかけてエスカレートし、 ついに武力衝突へと発展する。歴史に残っているだけでも十数回を数えるという。世にいう「山寺両門の争い」である。

また、源氏の氏寺でもあった三井寺は、源平の戦いや南北朝の動乱に際して源氏や足利氏側について、 それぞれ治承四年(1180)、建武三年(1336)にも大損害をこうむっている。 さらに、文禄四年(1595)には闕所(けっしょ)(:財産没収)を豊臣秀吉に命ぜられる。 まさに、悲運の三井寺である。しかし、そのような運命の三井寺は、その都度ことごとく蘇り、 現在も天台宗寺門派の総本山として隆盛を誇っている。不死鳥の寺と呼ばれる所以である。 このことは、多くの支持者、支援者がいたからに他ならない。今回の特集、 山岡道阿弥(法名暹慶(せんけい))も文禄の闕所からの復興に並々ならぬ力を注いだ人物であった。


山岡道阿弥坐像


山岡道阿弥像


信長、秀吉、家康と仕え権力の中枢へ

山岡道阿弥は、栗東武士として名高い瀬田城主の山岡景之の四男として生まれた。 山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。 父景之は文明・永正年間の頃、六角氏綱の下で「湖南の旗頭」を勤めたという。 この頃には、要衝瀬田の唐橋を支配する瀬田城を拠点としていた。

道阿弥は、はじめ三井寺に入り、暹慶と称し光浄院の住持となったが、 戦国時代の動乱によって還俗を余儀なくされ、景友を名乗り織田信長に仕えることになる。

天正元年、武田信玄は満を持して入洛の途についた。 すでに信長と不和となった将軍足利義昭もこれに同調して軍を起こす。 道阿弥も義昭の誘いによって石山に要害を構えて、柴田勝家、明智光秀に率いられた織田の軍勢に対抗するが、 敗れて瀬田城を逃れる。巷間伝わる信長の気性からは考えられないことだが、 その後許されて、信長の旗下に加わることになった。

その後、信長が明智光秀の軍勢により本能寺で倒れるや、瀬田橋に火を放ち、安土城に向かう明智軍を防ぎ、 その功により秀吉のお咄衆として仕えている。秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、 現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。

しかし、秀吉の死後、急速に徳川家康に接近する。 関ヶ原の合戦には、石田三成方の長束正家の甲賀水口城を降し手柄を挙げ、 伏見籠城戦に参加した甲賀武士の子孫百名と九千石を家康から賜る。 道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている。


山岡家は代々、瀬田城主をつとめていた。 現在、瀬田の唐橋の付近には山岡家を記念する「勢多古城 址碑」がたっている。


国宝・光浄院客殿は慶長6年に山岡道阿弥よって建立された。


近鉄「桃山御陵前駅」付近にある町名表示板。


道阿弥の足跡は三井寺の歴史そのもの。

三井寺の光浄院は、十五世紀前半に道阿弥の祖先にあたる山岡資広が開創したのに始まり、 代々山岡家の子孫が住持を勤めることになっていた。そのような訳で三井寺には道阿弥の肖像画が伝わっている。 本紙の下半分に大きく軍馬を描き、人物は左むきに座った姿で上半分で大きく描かれている。 道阿弥はやや小肥の温和な容貌で描かれている。茶人のような教養ある人物に描かれており、 とても戦乱の時代を生き抜いた覇気ある人物には見えない。 それだけいっそうに下半分の軍馬とちぐはぐで人物を描いたのか馬を描いたのかわからないような印象を受ける。 他にも、景隆、景以などの山岡家当主の肖像画も残されている。

文禄の闕所に際しては道阿弥の弟、暹実とともに三井寺復興に奔走することになる。 現在の国宝光浄院客殿こそ道阿弥の建立によるものである。まさに三井寺復興の大恩人であった。

三井寺の伽藍も復興され家督も無事に景以に譲る目安がついた慶長八年(1603)12月20日、 山岡道阿弥は波乱の生涯を閉じた。享年六十四歳であった。ある時は三井寺の高僧、またある時は戦略にたけた武将として、 信長、秀吉、家康と権力者が変わっても奇跡的に戦乱の世を生き抜いた山岡道阿弥という人の魅力は何だったのだろうか。

今年三月、道阿弥が眠る京都、東山知恩院の墓所を訪ねた。 知恩院境内、信重院の御母堂様に道阿弥の墓所まで案内していただいた。 知恩院の黒門を通り、浄土宗の開祖法然上人をまつる御影堂の奥をすぎ、小高い山を登る。 幾箇所もの墓地を通り抜け、市内を一望する東山の山麓にへばり付くようにそれはあった。 われわれ取材班だけではとうてい見つける事が困難な場所であった。 また、我々が通った黒門は道阿弥が伏見城より知恩院に寄進したと伝えられており、 信重院には三井寺と同様、位牌が安置され手厚く供養されている。知恩院にとっても、大切な人物であった。

いづれにしても道阿弥が復興した光浄院は、それ以降変わることなく端正な姿を今に伝えている。 争いもなく平和な時が四百年も続いたのは三井寺の歴史始まって以来ではないだろうか。 これからもそんな時が永遠に続くことを道阿弥は願っているに違いない。


山岡景隆像


山岡景以像


道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)


京都東山から眺望が広がる。


山岡道阿弥がねむる墓所。






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