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浄土真宗中興の祖・蓮如上人と、三井寺の出会い。


大衆に支持された人間蓮如。その行動力の源は…。

京阪電車京津線、上栄町駅の踏切近くに樹齢数百年は経つと思われる欅の大木ある。そのふもと「犬塚の欅」の碑には、今回の特集、蓮如が法難を避けて大津に滞在していたとき、毒を盛られた食膳を食べて死に、蓮如の命を救った犬を葬った塚であると記されている。また、逢坂一丁目の安養寺に伝わる「身代わり名号石」は、本願寺焼き討ちの後、逢坂で追手の比叡山延暦寺の衆徒に襲われた蓮如を身代わりとなって守ったという。

蓮如にまつわる様々な伝説や言い伝えは、布教活動の拠点、大津や堅田、守山(金森・赤野井)あたりに沢山残っている。中でも有名な「かたた源兵衛の首」の話は後に述べるとして、人間蓮如の人となりに稿を進めたい。

蓮如上人(一四一五.一四九九年)は本願寺第七世存如の長子として生まれる。幼名は布袋丸と呼ばれていた。本願寺は浄土真宗の祖、親鸞聖人の御影堂(廟所)であった。現在の本願寺とは比べものにならないほど、四軒幅の小さな寺であった。親鸞聖人没後、すでに百数十年が経ち、その遺徳をしのび本願寺へお参りする人も少く、本願寺はさびれ、しかも極貧状態であった。また母親は寺の下働きをする女性で、いわれもない差別を受けていた立場の女性だったという。

蓮如は本願寺で親鸞聖人の教えを解釈し、布教活動に専念、四十二歳で第八世を名乗る。蓮如は自分なりに平坦な言葉で浄土真宗の教え「御文(御文章)」を表し、文字の読めない農民、土地を持たない小作人、職人など下層社会に属する人たちの圧倒的な支持をえる。時あたかも南北朝時代末、朝廷が支配していた荘園制度が瓦解しようとしていたときである。

そんな大きな仏教界のうねりに危惧を抱いた比叡山延暦寺の衆徒は、寛正六年(一四六五)、本願寺を破却(焼き討ち)。寛正の法難として名高い。

犬塚の欅
(大津市指定天然記念物)


親鸞聖人・蓮如上人連座像(いずれも本福寺所蔵)


本福寺第三世・法住法師像


本福寺本堂内、蓮如殿に祀られる蓮如上人像。この蓮如殿は三井本家の寄進になるもの。


堅田、守山、そして北陸…大津でひととき安らぐ。

京から敗走した蓮如は、近江の国・堅田の本福寺住職の法住の世話になる。堅田は琵琶湖の西部に位置し、湖上交通の拠点として発展した自由都市的な賑わいを呈していた。本福寺住職法住は、その豊かな経済力を背景に、小作人や職人、など下層社会に属する人たちに教えを説くため、道場を開いていた。浄土真宗の教え「念仏」をとなえれば救われると教えた。蓮如は比叡山のふもとで法住と共に、新しい教えを説いた。応仁二年(一四六八)、再び山門の大がかりな攻撃を受ける。世にいう「堅田の大責」である。

蓮如は失意の中、五十七歳という当時では老齢の域に入った身を震い、浄土真宗の教えを広めるため越後、加賀地方へ旅に出る。今も北陸は真宗王国といわれる所以である。北陸地方にも、これが蓮如の座った石、使った筆・硯などと虚実入り交じった伝承が残っている。蓮如が北陸布教の拠点として選んだ吉崎(福井県金津町)は、日本海を望む北潟湖の入り江に突き出した半島の高台にある。吉崎に坊舎を構えた蓮如は、飢餓で苦しむ農民や、宗門内部の対立など問題の解決に奔走し、わずか三年で本堂、坊舎、庫裏、書院、楼門などを備えた一大寺院を築く。そして、都からやってきたありがたいお坊さんを拝みたいという素朴なお参りの人たちが大挙して吉崎に訪れる。それは、暗く厚い雲に覆われた北陸の地に現れた、蜃気楼のようだったに違いない。しかし、急速に巨大化した教団とその元に入る膨大な資金をめぐっての内部分裂、二千人以上の死者を出したという地侍と門徒集団のたび重なる戦い…。蓮如はその蜃気楼で出来た牙城を失意と共に去る。のち、天下統一をはかる織田信長の勢力と門徒衆が戦った一向一揆が勃発する。


三井寺、万徳院で本願寺再興の策を練る。

西国三十三霊場巡りの十四番札所、三井寺観音堂には浄土真宗の開祖、親鸞聖人の御像が安置されている。寛正の法難に会う直前、命からがら本願寺から持ち出した御像は、湖南・湖西の各地を転々としていた。蓮如は三井寺の万徳院住職長命に、本願寺再興の時まで御像を預かって欲しいと念願して北陸へ布教の旅に出る。のち、三井寺では寺領の一部をさいて、五別所の一つ南別院近松に坊舎(近松別院)が建立される。親鸞聖人の御像は安住の住みかを得るのである。文明十二年(一四八〇)山科に念願の本願寺御影堂が完成する。ここで「かたた源兵衛の首」の伝説を述べねばならない。蓮如とその側近は三井寺に親鸞聖人の御像の返還を求める。三井寺はそれは出来ぬ、信徒衆の首を二つ持ってくれば返してやる、と。熱心な信徒であった堅田の源右衛門は息子の源兵衛の首を持参し、もう一つは自分の命を差し出すからと返還を懇願する。慌てた三井寺は、源右衛門に親鸞聖人の像を持ち帰るように命じる。その源兵衛の首が、小関越の途中にある等正寺に奉っているという。一方、三井寺の説によると、本願寺が比叡山延暦寺の焼き討ちに会ったとき、蓮如を手厚く庇護し、その師親鸞聖人の御像も丁重にお守りした。また、後にはその御像を奉るため、坊舎(近松別院)も建立している。いま、観音堂に奉られている親鸞聖人像は、蓮如自らがそのお礼に彫り、奉納されたものだ、という説である。

その伝説の真偽は確かめようがない。ただ、飢饉や伝染病、百姓一揆。公家社会から戦闘集団としての武士の台頭。乱世と一言では言い尽くせぬ混乱期…。従来の価値観や体制に対する不満を巧みに汲み上げ、一心に念仏を唱えるだけで救われるという分かりやす教義で一大教団に育て上げた蓮如。八十四年の生涯で五人の妻をめとり、二十七人の実子を設ける。その子供たちを各地の重要な寺に配置し、時の権力者にも通じ、堂々たる大教団に育て上げた蓮如。現在でもその宗教的偉人の姿は我々に様々なことを語りかけてくる。


本福寺には蓮如上人ゆかりの法宝物が多数伝わっている。第二十世・三上明暢師にお話をうかがう。第十一世・明式(千那)は芭蕉の高弟としても知られ、境内には句碑が並ぶ。


境内に立つ蓮如上人


西国十四番札所・三井寺観音堂

現在の本願寺近松別院
三井寺山内の万徳院
三井寺観音堂には、今も親鸞聖人(右)
と蓮如上人(左)の御木像、六字の縫の
名号(中央)が祀られる。

 
近松御坊から山科へと蓮如
が往来した小関越の道
堅田源兵衛の伝説
が残る等正寺





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