三井寺三井寺について
ホーム サイトマップ

歴史散歩
三井寺について
境内案内
歴史年表
伝説
歴史散歩
べんべんと行く西国三十三所霊場めぐり
戦国武将と三井寺
庶民信仰と三井寺
古典を歩く
旧三井寺領を行く
三井寺を旅した人


ピックアップ

名宝の紹介

教義の紹介

花ごよみ

連載

法要行事

拝観案内

販売

お知らせ

お問い合せ


法明院の開祖、義瑞和尚はスーパースターだった。


奉行所宛の一通の訴状が謎を深くする。

三井寺の北院、法明院に大坂奉行所に差し出された一通の訴状の写しがある。 延享元年(1744)の記録である。

「口上去ル子ノ四月、大坂并京都ニをゐて、潤色江戸紫と申浄瑠璃本板行仕、 江戸八百屋お七・吉祥院之小姓吉三郎を事を書………時に近江の志賀の里、 ぎずいと呼ばれ、智識の誉其名年ふると書置申候事、全ク無跡形も不実成儀ニ御座候、 ………絶板ニ被為仰付被下候様ニ奉願候、………三井寺法明律院知事」


大坂奉行所に差し出した訴状の写し。

訴状を要約すると、大阪および京都で版行(出版物を印刷して発行すること)された浄瑠璃本『潤色江戸紫』では、 八百屋お七の相手となった小姓吉三郎は、後に、 近江の志賀の里ぎずい(義瑞和尚)と呼ばれる「知識の誉」ある名僧となったとあるが、これは根も葉もない噂である。 吉三郎・義瑞和尚説が芝居や浄瑠璃で流布されるのは 師である義瑞和尚の名誉を著しく汚すもので即刻絶版していただきたい。という内容の訴状である。


義瑞和尚直筆の額「観空庵」は今も法 明院に残されている。


切々と語る悲恋物語、大衆娯楽は一気に華開く。

八百屋お七の恋物語は、井原西鶴の浮世草子『好色五人女』をはじめ、 歌舞伎や浄瑠璃にもたびたび取り上げらた外題である。 その年の四月、大阪の豊竹座で人形浄瑠璃『潤色江戸紫』が上演されたと記録にある。

西鶴の描いた八百屋お七は、江戸本郷の八百屋八兵衛の一人娘で十六歳。 希に見る美女だった。天和二年(1682)も押し迫る師走二十八日、 折からのならい風(北東の季節風)に火はたちまち神田、下町へと燃えひろがり、 両国橋を越えて、本所、深川まで火の手が広がる。お七は母親に付き添われ、菩提寺の吉祥寺へ避難する。

同じ事情で寺に移ってきた人々と寝泊まりしながら当座の生活をおくる。 吉祥寺の寺小姓として働いていた吉三郎も十六歳。 お七はふとした事で、吉三郎の人差し指にささったトゲを抜くことになる。 これをきっかけに二人は手紙を交わす仲になるが、会う機会をつくれないまま、お寺での新年が明ける。 正月も十五日になり、急な葬式で寺中の僧侶が出払ったその機に、 今夜しかあの人に会う機会をないとお七は決心する。 寺の客間の寝床をそっと抜け出す。 お七の願いは成就するが、翌朝母親に見咎められ、避難先の吉祥寺から引き上げることになる。 親の厳しい監視下におかれるが、下女梅のはたらきで、こっそり文通だけは続いていた。

一方、吉三郎もお七会いたさに、里の子(農夫)に姿をやつし笠をかぶってキノコやツクシを八兵衛の店に売りに行く。 春の雪が降りしきる夕暮れ、八兵衛は哀れんでその子を土間に泊めてやる。 お七は、冷え込む土間で眠っている里の子に同情し、笠をそっとはずしてみると上品な顔立ちが現れ、吉三郎とわかる。 吉三郎の体は凍えきって、足も立たない。下女と二人がかりで部屋に運び込むが、隣は父親の部屋。 二人は灯の下に硯と紙を置き、もどかしい一夜の再会。筆談で永遠の愛を誓う。 しかし、お七にはそれきり、吉三郎に会う手立てが無かった。

ある風の強い夕暮れ、吉祥寺へ逃げたときの事を思い出し、「また、あんなことになれば、吉三郎さんに会える 種になるかもしれない」と、ふっと出来心から放火を思い立つ。少し、煙が上がったところで、取りおさえらる。 お七は素直に自白したが、火つけの重罪人として処刑された。 ほんのボヤで済んだ放火でも、火あぶりという重い刑で裁かれなければならないほど、当時の江戸は火災が多かった。 一方、吉三郎はお七に連絡できぬまま、吉祥寺境内にお七の卒塔婆を見て驚く。 あとを追うつもりで自殺をはかるが、僧侶たちや、お七の両親から説得され思いとどまる。 吉三郎は剃髪後、お七の菩提を弔い出家する……。西鶴の浮世絵草子『好色五人女』はここで終わる。


井原西鶴、1693(元禄6年)没。享年51歳。


歌舞音曲の原点、出雲の阿国「念仏踊」。


浄瑠璃「潤色江戸紫」という演目で上演されることはない。写真は「伊達娘恋緋鹿子」という歌舞伎の中でお七が火の見櫓に登り、半鐘を打ち鳴らすというシーン。黒子とのからみが人形浄瑠璃の雰囲気を残す。


役者以上に人気があった、義瑞和尚とは。

義瑞和尚は本性井上氏、滋賀郡の生まれで六歳の時、三井寺(園城寺)の支院光浄院に入り修行の後、 法明院を中興。天台の教えを広め、学行兼備の「近江の名師」と仰がれた人である。 八歳で摩訶止観を読み、その教えを説き、まわりの人たちを感歎せしめたという。 しかし、十六歳で母親を亡くし出家する。のち三十歳までの記録が三井寺にはあまりない。

一説によると、母を亡くしその菩提を弔うため、江戸にある吉祥寺へ行ったという。 そこで八百屋お七と遭遇した……。寺小姓、吉三郎はのちの義瑞和尚ではないか、という風評がたった。

義瑞和尚は、多くの信者を持ち当時の宗教改革者、妙立師に師事しながら、説法を説き歩き、 宝永五年(1708)四十二歳のとき、志賀山近郊で勝蓮社という念仏会を起こし一万人余を集めたと伝えられている。 その説法は「弁は懸河(急流)の如く、剖折精確、源々靡々として、未だかつて窒礙(つかえること)せず。 衆の傾聴して歎異せざるはなし」といわれる名弁舌であった。 テレビ、新聞、インターネットなど伝達手段がほとんど無かった時代、 歌舞伎や浄瑠璃に取り上げられた義瑞和尚は、今で言うスーパースターだったに違いない。


法明院の開山堂に祠られている義瑞和尚像、仏教学者としても名高く「天台四教儀直解三巻」「行事鈔資持記節要四十二巻」など多数の著作が残されている。1737年(元文2年)71歳で入寂。


義瑞和尚の著書「放生儀」。






「歴史散歩」に戻る
「三井寺について」に戻る

Copyright (C) 2002 Miidera (Onjoji). All Rights Reserved.