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その(4) 錦織・山上


新緑に輝く参道に大きな鳥居が目に入る

鬱蒼と茂る木々に囲まれた参道を歩くこと十分、急な石段を登ると朱色に輝く楼門が目にはいる。天智天皇を祭神とする近江神宮である。天智天皇は、今から千三百年の昔、古代国家の礎となった大化の改新を断行された。漏刻(水時計)を設置して時刻制度や法律の原点、近江令の制定。そして全国規模の戸籍の編纂など、その業績は計り知れない。

志賀越えの道

大化の改新、理想に燃えた天智天皇も夢の途中で、天智十年(六七二)謎の死をとげる。近江神宮はその遺徳をしのび、昭和十五年(一九四〇)一月に建立された。広い境内には漏刻や時計博物館などがあり、初詣、七五三詣りなど訪れる人は多い。

次に錦織を訪れる。錦織は大津京があった場所で、多くの遺構・遺物が発見され国の史跡に指定されている。天智六年(六六七)からわずか五年、壬申の乱で灰と化した幻の都である。その幻の都の名前で物議をかもしたJR西大津駅名もこの春、無事「大津京」駅と改称された。

国の史跡・崇福寺跡

磨崖仏はやや斜めに傾き静かに微笑んでいる

京阪坂本駅近くの日吉茶園細い北国街道を南に歩くと、山手に皇子ケ丘公園が見えてくる。皇子ケ丘公園は早咲きの桜や、子供向けの施設があり、市民の憩いの場として賑わっている。その桜並木を見て歩くこと十分。公園の西側の坂を登りきったところに皇子山古墳がある。

皇子山古墳は滋賀県で最初に発見された前方後方墳で、前方部・後方部あわせて五人を葬った跡が見つかっている。四世紀後半の築造と考えられ、近江の古墳時代を考えるうえで重要な位置を占めている。現在は古墳公園になっており、琵琶湖に面した部分には葺石が施されている。その山頂に立つと、春の光をあびた琵琶湖が望めた。

次に山上村(現山上町)を訪ねる。落ち着いた家並みの中、細い路地が続き緩やかな坂道を登ると山上不動堂へ出る。山上不動堂は元慶年間(八七七〜八八五)三井寺の祖、智証大師円珍によって開基されたお堂で、正式には山上浪切不動尊といい、その本尊はお堂の奥にひっそりと佇む磨崖仏である。磨崖仏には仁治三年(一二四三)という銘が刻まれている極めて古い石仏である。

その不動尊をお守りする三井寺伝灯教会「山上組」の代表、若代岩吉さんにお話を聞く。山上不動尊は比叡山延暦寺との法脈の違いから幾度となく焼き討ちにあい、とりわけ仁治三年(一二四三)三月二十一日の被害は甚大で、大津西浦(三井寺門前町)では千余戸は消失したといわれている。

その供養に、大岩に磨崖仏を刻し、同年八月二十八日、開眼供養されたといわれている。今も毎年八月二十八日三井寺の僧が導師として赴き、修験道の山伏姿で勇壮な法要が営まれているということである。

その山上不動堂の北側に早尾神社がある。早尾神社は新羅善神堂(国宝)とともに、明治初年の神仏分離までの間、三井寺北院の鎮守神の一つであった。

早尾神社は千二百年ほど前、坂本日吉七社の内早尾大神を祀り、谷間に不動像を刻み三井寺の守護神として建立された。境内には三井寺の草創者、大友与多王(大友皇子の子)を祀る児大友社がある。

早尾神社もやはり山門(比叡山延暦寺)、寺門(三井寺)の対立により幾度となく灰と化す。江戸中期、天明元年(一七八一)山上村在住の村人たちにより再建されたという。また、現在の社殿は昭和五十七年に新しく建て替えられたものである。

背後の山道を行き、さらに急な坂道を登ると千石岩がそそりたつ。垂直30メートルはありそうな巨岩が立ちはだかる。かつては近隣の子供たちの格好の遊び場だったが、現在は休日ともなるとクライマー達が集い、ロッククライミングのメッカの様相を呈している。




国家を二分した壬申の乱は謎多く古代史に残る

大津市役所の裏手、南北に伸びる御陵がある。壬申の乱で非業の死をとげた大友皇子(弘文天皇)の葬地である。弘文天皇は天智天皇の第一子で、大友皇子としての名のほうが知られている。大友皇子は天智天皇没後、大海人皇子(後の天武天皇)と皇位継承をめぐり戦う。いわいる壬申の乱である。

吉野に隠遁していた大海人皇子は一気に挙兵し、地方の豪族を味方に付け伊賀、伊勢、美濃を転戦。天智十年(六七二)、瀬田橋の戦いで近江朝廷軍が大敗すると、大友皇子は「山前」(やまさき)という場所で自害する。しかしその「山前」という場所は諸説あり、現在の大津市役所裏もその一つといわれていた。

明治の初頭、当時の滋賀県令(知事)籠手田安定は、大友皇子の自害の場所などを調べ、現在地を御陵と認め、弘文天皇と追号されるよう働きかけた。他にも滋賀県に多大な功績を残した名知事であった。その顕彰碑が三井寺境内、金堂に続く参道の左手に残っている。


正興寺にある「梵釈寺旧跡」の石碑、本堂内には智証大師像が祀られる


いつも慈悲深いまなざしで三井寺は歴史を見つめ続けている。

三井寺はその為政者によって、度々焼き討ちや闕所(廃絶)によって時代に翻弄される。

明治に入ってからも神仏分離で多くの境内領地、さらにはお堂・子院、信仰の対象としての仏像も失う。ことに山上村に接する北院の大部分は陸軍省に接収され、戦後は米軍のキャンプ地として用いられてきた。その後大津市に移管され、皇子ケ丘公園として整備された。










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