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その(5) 東海道から北国街道へ


今も清水がこんこんと湧きいでる

シリーズ旧三井寺領をめぐる旅も今 回が最終回。三井寺南院、長等公園の 南側、逢坂の関跡を基点に、旧東海道 を東へ浜大津方面に向かう。逢坂の関 は不破、鈴鹿と共に日本の「三関」の 一つで、政治・経済・軍事などの重要 な拠点であった。今も交通の要衝とし てJR琵琶湖線、国道一号線、名神高 速道路、京阪京津線が極めて狭小な地 に集中している。

志賀越えの道

国道一号線を登りきったところ、東海道自然歩道の陸橋がそれをまたぐように通っている。その下手に、水車谷観音という表示板がある。深い山を分けるように進むと、細い川に出合う。
吾妻川である。さらに細い林道を五分ほど登ると、吾妻川の源流付近に水車谷不動尊がある。

吾妻川の水量は豊かで、しかも透き通るほど美しい。
大きく東へ蛇行し、近郷近隣に多くの恵みを与えながら、京阪島ノ関駅付近で琵琶湖にそそいでいる。その京阪島ノ関駅付近に立派な石造りの「吾妻橋」がある。吾妻橋のいわれは江戸時代、東(吾妻)へ下る旅人を見送った場所だとされている。京から出発して東海道を東へ、大津宿で一泊し、水杯を交わし、東と西へ別れたのが「吾妻橋」である。

国の史跡・崇福寺跡

吾妻川の清水で生糸を染め、紐を組む伝統工芸・草木染組紐を継承されている四代目、太田浩一(有限会社藤三郎紐代表)さんを訪ねる。この「藤三郎紐」は、慶応三(一八六七)年から、逢坂の関近くで生まれたという。以来、百四十年間独自の方法で伝統を受け継
ぎ現在に至っている。

京阪坂本駅近くの日吉茶園「化学染料にくらべ、草木染めは時間も手間もかかります。えもいわれぬ微妙な発色、日本人の美意識なのでしょう」と太田浩一さんは突然の訪問にもかかわらず和やかに話された。

現在は和装小物、主に帯締めの需要がほとんどだとか。昔は甲冑の修理などに相当量の組紐が使われていたという。

文物の交流は豊かな恵みをあたえてくれる。

京阪坂本駅近くの日吉茶園百人一首、盲目の琵琶法師、蝉丸が詠んだ「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」はあまりにも有名である。蝉丸神社は上・中・下と三社あり、特によく知られている下社には、いまも音曲芸事の上達を願う多くの人が訪れる。境内を京阪電車が横切り、鳥居の前に遮断機がある。よく見れば奇妙な風景である。

次に関寺の牛塔(長安寺宝塔)へ行く。須恵器の壷に笠をのせたような印象をうける。仏の化身の霊牛を供養するために建立されたもので、この種の
石塔としては我国最古最大のもので、全長三メートル余、胴周約五メートルもある。

そのいわれは、関寺(現在の長安寺)の建立に、一頭の黒牛が資材運搬等に大変活躍していたので、近所の住民がこの牛を借りて使役しようとしたとこ
ろ、夢にこの牛は迦葉如来の化身で、人は使うことは出来ないという。またお堂が出来る万寿二年(一〇二五)六月には涅槃に入ると、夢のお告げがあったので信心深い人は霊牛を拝み仏縁を得ようとした。

和泉式部は「年々に牛に心をかけながらまだこそ越えぬ逢坂の関」と詠み、時の関白藤原道長は感動して、その供養のために立てたという。京阪電車は
大きく左に曲がり、路面を走る。すべるように八丁通りをかけ下りる。

大津百町と賑わった江戸時代、街道の両側には本陣が一軒、脇本陣が三軒あった。八町通り(宿場通)は、上関寺から札の辻まで距離が八町(八七二メートル)あったからとも言われている。江戸時代の末には庶民の泊まる旅籠が百三十数軒あり、道の両側には多
くの旅籠があり賑ったという。

琵琶湖を眺めながら北へしばらく行くと、札の辻に出る。札ノ辻は大津宿の入り口で、文字通りこの場所に高札が掲げられていた。『近江名所図会』には札の辻の繁栄の様子が生きいきと描かれている。

札の辻から直角に東に曲がると京町通りとなり、膳所・草津へ行く東海道。西へは三井寺門前を通り堅田・今津へと続く北国街道。今回の旅は、どちらにも曲がらずに真っすぐに浜大津へ向う。途中に信号のあるアーケード、その一部に大津城の外堀があった場所もある。そして市立図書館に面する浜通りから、川口公園へと向かう。

浜大津港に荷揚げされた物資は小さな舟に積み替えられる。そして専用に堀られた運河から陸揚げされる。そのため幾本もの堀割が掘られた。昭和の中頃までその堀割りを小舟が行きかい、日用品や肥料を運搬していたという。川口公園にはその掘割の跡が色濃く残
っている。


庶民の厚き思いに守られて脈々とつづく法の縁

かつて湖西路を浜大津から北に向かって走っていた江若鉄道。一九二一年に「三井寺」から「叡山」駅までが始めて営業運転され、一九六九年にJR 湖西線が出来るまで多くの買い物客や娯楽を求める多くの人を運んでいた。その跡地を明日都浜大津から、「大津絵の道」として整備され、緩やかなカーブを描きながら北へ伸びる。

タイルに描かれた藤娘や、鬼の念仏など、大津絵をモチーフにした作品が訪れる人を和ませる。なかでも桜の季節が終わったころから咲き出す、ハナミズキは圧巻である。

その「大津絵の道」を観音寺町へと進む。観音寺町は室町時代からこの地を支配していた草津芦浦観音寺の代官所(通称・観音寺屋敷)があったところ。芦浦観音寺は幕府の知遇をうけ、なかでも九代目詮舜は豊臣秀吉の懐刀として、様々な特権を受ける。船奉行として湖上水運を管理、百艘船仲間を組織する。そして、利権を一手に掌握し、絶対的な権力を持つことになった。

三井寺にまつわる地蔵菩薩坐像を求 めて旧北国街道をさらに北へ歩く。そ の坐像は、観音寺町の公民館に安置さ れている。昨年大津歴史博物館で「三 井寺の慶長期の復興と金堂の再建」と いうミニ企画展が行われ、その時の調 査で初めてその坐像の歴史と価値が明 らかになった。今年十一月から開催さ れる「国宝三井寺展」に出陳される予 定となっている。



その地蔵菩薩坐像は、南北朝時代の 院派仏師により制作され、慶長四年(一 五九九)に修理されたと、光背に記さ れている。院派は、平安時代以降、活 躍した仏師集団で、足利将軍家や北朝 天皇家と親密な関係にあった。その院 派の仏師が刻んだ仏像となると、クオリティも高く、誰でも注文できる訳で は無く、この坐像は、もとは三井寺の 発注により制作されたと考えられる。

文禄四年(一五九五)に三井寺は秀吉 に突如として闕所を言い渡される。寺 院としての機能は停止される。三井寺 の金堂も観音寺詮舜の差配により、延暦 寺西塔の釈迦堂として移築されるなど、 三井寺は混乱をきたす。その時に門前 の観音寺町に移されたのかも知れない。

寛保二年(一七四二)の大津町古絵 図を見ると、観音寺町のなかに地蔵堂 があることが示されている。位置的に も地蔵堂の本尊がこの坐像である可能 性が高い。

江戸時代になると地蔵菩薩坐像は、 この地で厚い信仰に守られ、現在も町 民のみなさんが毎月熱心にお参りされ ている。町内の地蔵さんに、こんな古い 歴史と物語をあったことに驚かされる。



正興寺にある「梵釈寺旧跡」の石碑、本堂内には智証大師像が祀られる





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