その(3) 滋賀里・南志賀
王族の墓をめぐりいにしえ人に思いを馳せる。
京阪電車「滋賀里」駅から西へ歩く。大津京の道と記された道標に従って、石積みの細い坂道を登る。まず、最初の目的地、崇福寺跡を目指す。途中、境川と合流する地点に百穴古墳群がある。
百穴古墳群は約千四百年前(古墳時代後期)に造られた古墳で、横穴式石室を土で被ったもの。石室内には二〜三人の被葬者が金のイヤリングや銅のブレスレットなどで装飾されていたと考えられている。また、祭祀用のミニチュア炊飯具セットなど珍しい遺物も出土している。石室の構造や副葬品の出土例からみて朝鮮半島の影響が色濃く残っている。
しばらく山道を登ると、高さ約三・五m、巨大な花崗岩に彫り込まれた阿弥陀如来坐像が現れる。志賀の大仏である。この阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作と考えられ、京の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)の道中の安全を祈願して建てられたものである。今も地元の人たちがつくる「大仏講」で大切に守られている。
山道をなお登ると、鬱蒼と繁る木立のなかに、崇福寺跡の碑が立つ一角に出る。崇福寺は天智七年(六六七)天智天皇の勅願によって建立された寺院で、志賀寺とも呼ばれていた。その伽藍配置は、金堂、講堂、三重宝塔、僧房など荘厳華麗な姿を示し、近江大津宮が廃都となった後も、十大寺の一つとして、大和の諸大寺と並び称されるほどの重要な位置を保っていた。平安時代末期になると三井寺の勢力下に入り、寛喜二年(一二三〇)には中・北両院の末寺となった。
しかし、この間、山門(延暦寺)・寺門(三井寺)の抗争により、しばしば罹災して寺運はしだいに衰退し、室町時代には廃寺となった。
崇福寺跡から発見された遺物には、舎利容器・銅鐸・無文銀銭などがあり、それらは昭和十九年、一括して国宝に指定されている。特に水晶の舎利が三粒納められていた瑠璃壺は、吉野ケ里遺跡(佐賀県)で管玉が出土するまで、日本にある最古のガラスとして人々を魅了し続けてきた。
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大津京の謎は今も地中に眠る
天智天皇によって建立された崇福寺、その付近には、桓武天皇が建立したという梵釈寺(現在のところ場所は不明)があった。弘仁六年(八一五)、嵯峨天皇が崇福寺に礼仏ののち梵釈寺で当時両寺の検校をしていた僧侶、永忠によって煎茶を奉られたというエピソードが残っている。わが国における喫茶の歴史の始まりである。
永忠は宝亀年間(七七〇〜七八〇)に入唐した留学僧で、以来三十年近くを長安で過ごし、最澄らと同じ時期に帰朝している。したがって長期にわたる唐での生活の中で、普及した茶を日常的に飲んでいたと考えられる。
嵯峨天皇はこの献茶によほど感銘を受けたとみえ、京阪坂本駅近くにある日吉茶園(日本で最初に植えられた茶畑)や、播磨などに茶の木を植えさせ、茶を貢進するよう命じている。しかし、その肝心の梵釈寺の所在は不明で、崇福寺の南側の山中にあったという説や、南滋賀廃寺(南志賀一丁目)説などがある。
次にその謎の梵釈寺跡の碑が残る正興寺を訪ねる。正興寺は、もともと南滋賀廃寺の発掘調査が行われるまで、その上に建っていた。幾重もかさなる土壌の発掘調査がはじまり、公園整備が計画され、昭和六十三年に正興寺は現在の場所に移された。
正興寺は、三井寺に残る古文書によると文明十六年(一四八五)浄土宗のお寺として創建。その影響力は強く、この滋賀里、南志賀あたりを正興寺村、新在家村と呼ぶようになった。その正興寺の本堂にも、三井寺の開祖、智証大師像が祀られ、旧三井寺領であったことを物語っている。
正興寺の脇、木立に囲まれた小高い丘に小さな神社がある。大伴黒主神社である。大友氏はこの地を古くから治める豪族で、平安初期の「六歌仙」の一人として活躍した歌人・大友村主黒主が祀られている由緒ある神社である。 その大友氏との関係は古く、三井寺は、大津京を開いた天智天皇(中大兄皇子)、その弟、天武天皇(大海人皇子)、天智天皇の子・弘文天皇(大友皇子)の勅願寺であり、その子、大友与多王が荘園を献じて建立されたとされる。
歴史の表舞台を飾る名場面の数々が…。
古墳時代から、飛鳥、平安、室町時代と歴史の表舞台を見つめてきたこの地。いよいよ戦国時代へと時は移る。近江から京へ通じる幹線が走っていたという地理的条件が、しばしば戦場となった。近江神宮のさらに山手、宇佐山城跡に登る。
朽ちた城壁が戦火のあとをしのばせる。元亀元年(一五七〇)織田信長軍が浅井・朝倉連合軍とここ宇佐山城で対峙。激しい戦闘の結果、城主森可成は戦死したが、山城は守り通された。その後、明智光秀が城主になるが、この城を拠点に、信長は激しい山門(延暦寺)の焼き討ちを行い、その監視基地として坂本城を築く。
群雄割拠する戦乱の世が治まり、安定した形をとるようになったのは、徳川政権が成立した後のことである。寛永十一年(一六三四)の『近江国石高帳』によれば南滋賀村(正興寺村、新在家村)は一一〇五石となっており、三井寺領となったこの地に公文所がもうけられ、行政・司法などの支配が定着した。
新しい大津京の課題は多い
大津京にまつわる様々な歴史ロマンを足早に訪ね歩くこと、三時間あまり。この足元に天平の甍が埋まり、相聞歌を詠んだ木簡が朽ち果て、戦火にまみれた名も無い兵士の屍が横たわる。その上、町を分断するように取り付けられた高速道路や、風情を壊すミニ開発の住宅地など、今のありようが砂上の楼閣のように思えてならない。
来年の春、三井寺の最寄り駅の一つ、JR「西大津駅」の駅名が地元住民の強い要望によって「大津京駅」に変更される。大津京の新しい歴史の始まりと期待される。この事によってより大勢の考古学フアン、あるいは歴史愛好家がこの地を訪れることになる。駅前の整備や遺物の展示、ボランティアガイド、安心して歩けるルート作り、案内標識板の充実など問題は多い。
先人の残した貴重な資産を生かし、後世に伝える。文化財を生かした町づくり、これからが正念場である。
※季刊三井寺「特集・旧三井寺領を行く」そのA神出の文中、旅館植木屋さんの記述中に、取材の手違いにより、事実とは異なる表現で、植木屋さんにご迷惑をかけたことをお詫びいたします。
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