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勧学院の雀は蒙求を囀る
縁あってこのたび園城寺一山寺院勧学院に居住することになりました。
10年間住みなれた同・覚勝院から勧学院に転住したのは昨年の盛夏のことでした。
勧学院は師僧長吏猊下が住職されておられる山内子院で、
弟子であります私がお預かりするのは大変名誉なことであるとともに、
気が重いことも実感いたしております。
そこで、そもそも勧学院とはどういう施設なのかについて記すことにします。
勧学院は弘仁12年(821)、藤原冬嗣が氏族の子弟教育機関として設立されたのを嚆矢とします。
ここでは当時の官界での必須教養科目であります漢文学を主に学習しておりました。
また、前後して和気氏の弘文院、菅原氏の文章院、橘氏の学習院、在原氏の奨学院などが設立されております。
漢籍に『蒙求(もうぎゅう)』3巻があって、
平安時代には貴族の子弟教育の教科書として盛んに講義されておりました。
庭で遊んでいる雀でさえ難解な『蒙求』の一節を囀るほどの盛況振りで、
その様を詠んだものが「勧学院の雀は蒙求を囀る」です。
つまり勧学院は学問所であることがこのことからも判ります。
そういった機関が諸大寺に取り入れられました。
寺院において学問興隆は何よりも大事です。
とりわけ奈良時代の南都の諸大寺では寺全体が学問所とでも言うべき機能を果たしておりましたが、
平安時代になると場所を限ってそこを学問所とするようになりました。
こうして勧学院が一宗の諸大寺に建立されたのが、寺院における勧学院の始まりと言えます。
そういった歴史のなかで三井寺勧学院の創設は比較的遅れ、
房海僧正により正和元年(1312)に建立されました。
勧学院に20人の学衆を置き、
智者大師の著した『天台三大部』(法華玄義、法華文句、摩訶止観)を日々講釈したと言われております。
現在の三井寺勧学院は慶長5年(1600)、豊臣秀頼の命を受け毛利輝元によって再建されました。
客殿は初期書院造の代表的な遺構として、光浄院客殿とともに国宝の指定を受け、
室内を荘厳する障壁画39面は狩野光信(1561〜1608)筆で、重要文化財となっております。
さらに驚くべきことには、当寺所蔵の重要文化財・
園城寺境内古図(鎌倉時代・14世紀)5幅中南院幅に勧学院が描かれており、
創建当時の寺観を知り得ることができるとともに、
慶長時の復興で再建された現勧学院の建立場所も旧地であることなどです。
このような由緒ある子院の維持管理と文化財保護のご下命。
重責に身が引き締まる日々です。少々気も重いですが。
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