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汚名返上

「下手右京」、これは狩野派第六代棟梁の狩野右京進光信(1565〜1608)に対する狩野永納の評価です。酷評もいいところで、光信が気の毒でなりません。光信の父永徳は確かに偉大な画家であり、桃山時代を代表する名手であることには誰も異論はありません。また、山楽、探幽の名も我々はよく耳にします。どうして光信独りがそのように蔑視されたのでしょうか。

光信は永徳とともに信長が築いた安土城障壁画や秀吉の築いた大坂城障壁画、聚楽第障壁画の制作に携わっています。信長や秀吉がいくら永徳の息子だからといって、技量の伴わない光信を制作スタッフとして認めるはずがありません。光信は永徳の期待に充分応える仕事ぶりを発揮した事でしょう。秀吉から褒賞として小袖を拝領していることからも、そのことがわかります。ただ残念ながら、それらの作品は現存しません。城と運命をともにしました。

狩野永納が著わした『本朝画史』に冒頭で紹介した「下手右京」の評が出てくるのですが、同時に「為花草禽虫 倭画風情軽柔可愛(花草禽虫を為すに 倭画の風情軽柔にして愛すべし)」ともいっています。永納の感覚においては狩野派のスタンダードな画風は永徳風であり、豪快な大画をもって派風と見なしたのでしょう。永徳が没し、嫡男光信が一派を率いる棟梁となった今、父の画風と決別し、倭画(大和絵)風の作品を目指したと考えられます。しかし、時代が光信の方向性を受け入れなかったことが、永納をして「下手右京」と言わしめることになったのではないでしょうか。

大正14年、国宝・勧学院客殿の解体修理が行われました。その時一之間正面を飾る床貼付裏面より、「画者狩野故右京光信筆也(略)于時寛政十一年己未仲夏 当住探題大僧正親剛六十七歳」と墨書が認めてあったのが発見されました。それ以降、光信画の研究が諸碩学により進められ、光信真筆画の遺品が極めて少ない今日、勧学院客殿一之間、二之間を飾る障壁画群が基準作となったことは言を待ちません。ことに一之間の金碧濃彩(こんぺきのうさい)画は「倭画風情軽柔可愛」の評そのもので、光信の穏やかなで几帳面な性格が遺憾なく発揮されたすばらしい作品であることを改めて認識いたします。

技量においても下手と酷評されることは全くなく、絢爛豪華な桃山絵画のなかにあっても勧学院客殿障壁画は光信の真筆として燦然と輝いています。

それらのことを報告したくて命日である6月4日、光信が眠っている桑名市の寿量寺に墓参し誦経、回向してまいりました。




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