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明治の求法僧 慧海(二)

慧海は明治三十年(1897)六月二十六日、神戸港を出航します。慧海三十二歳の時でした。支援者たちは、慧海が旅立つに際して、金銭を餞別として喜捨した人もいましたが、慧海からの求めによって禁酒や禁煙、不殺生戒を餞別とした人もいました。ある支援者などは生業としている「鶏肉屋」を廃業して、商売替えをした人さえあったといいます。これも偏に慧海が目的を果たし、無事帰国できますようにとの祈願の表れなのでしょう。後日、慧海は「業をやめさせた功徳は、まさしく私がヒマラヤ山中やチベット高原で、しばしば死ぬような困難を救った最大原因となったのではあるまいか」と述懐して、感謝の念を表しています。

  香港、シンガポールに寄港し、七月二十五日インドのカルカッタに上陸しています。ちょうど一ヶ月の船旅でした。そこでダージリンに行けば、サラット・チャンドラー・ダースという人物がいて、チベット語を教えてもらえるだろうとの情報を得て、紹介状をもらってダージリンに向かいます。

  余談になりますが、ダージリンはヒマラヤ山脈の名峰・カンチェンジュンガ(標高8,586m。エベレスト、K2に次ぐ世界3位)を眺め、良質の紅茶ダージリンティーを産することで有名なところです。イギリスが紅茶を運ぶため、1881年に「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」を開通させていますので、慧海も二輌編成のこの鉄道を利用したことでしょう。今では世界遺産にも登録されています。

  ダージリンに到着した慧海は、サラット・チャンドラー・ダース氏の好意を受けて、猛勉強の末、僅か六、七ヶ月で一通りの会話はチベット語でできるようになったといっています。そして、「これならまずチベットへ行ってもさしつかえあるまいと言えるほど、俗語も学問上の研究もできてきたので、いよいよ明年、すなわち明治三十二年チベットに行くという決定をした」と、いっています。

  問題はルートです。ダージリンから一気に北上してチベットに入国するルートがあるのですが、なにしろ関所がある上、正規の旅券(パスポート)を持たない慧海にはこのルートはとれません。ほかにブータンやネパールを経由してチベット入りを模索するのですが、慧海は、ブータンには仏陀の古跡も研究するものもないので貴重ではなく、ネパールには仏跡やサンスクリットの経典もあり、例えチベット入りが叶わなかったとしても、それらを調査することは有益であると判断して、ネパールを経由してチベット入国をめざしました。(梅村敏明)




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