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明治の求法僧 慧海(一)
玄奘(三蔵法師・602〜664)は唐の長安から天竺(インド)まで経典を求めて旅をしました。その記録は『大唐西域記』として遺されました。最澄、空海、円仁、円珍等のいわゆる入唐八家(平安時代に仏法を求めて唐に渡った八人の求法僧)は当時世界一の都であった唐の長安を目指して渡海しました。その時の記録として、円仁は『入唐求法巡礼行記』を、円珍は『行歴抄』を著しています。
時代はずっと降りますが、明治時代に『西蔵(チベット)旅行記』なるものを著した人物がいます。河口慧海(えかい)です。慧海は仏教学者であり、当時鎖国中のチベットに単独で入国した初めての日本人です。冒険家としても名が知られています。 慧海は慶応二年(1866)、和泉国堺(大阪府堺市)に生まれ、幼名を定治郎といいます。十五歳の時、定治郎は「釈迦牟尼仏の伝記を読みて其の大慈悲心に大いに開発せらるゝ所あり、十五歳の十月二十五日断然として、禁食肉禁酒不婬の三条を実行せんことを誓願せり。是れ僧侶たり得るや否やを自ら試みしものなり、爾来殆んど十年、廿五歳の三月に至るまで確実に此の三条を実行せり」と後に語っています。この時の(発菩提心)は期限付きではありましたが、生涯持戒したといわれています。 明治二十一年春(定治郎二十三歳)、定治郎は上京し、黄檗宗羅漢寺に寄宿しながら勉強をして、哲学館(現在の東洋大学)に入学しました。 明治二十三年三月十五日、羅漢寺住職・海野希禅から得度を受け、慧海仁広の法名を賜り、晴れて一人の禅僧となりました。翌年七月、正式に師僧から羅漢寺を譲られ、住職に就任しております。しかし、明治二十五年には関西に戻り、難波の瑞龍寺や宇治の万福寺塔頭・別峯院で漢訳(黄檗版)の一切経の読誦を始めます。 そこで重大な疑問が慧海の心に起こってきます。慧海は「漢訳の経典を日本語に翻訳したところで、はたしてそれが正しいものであるのか。サンスクリットの原書は一つだが、漢訳の経文は幾つもあり、その文が同一であるべきはずのものが、同じものもあれば、また違っているものもある。はなはだしい場合には全く意味が異なっているものがあり、(中略)その原書によって見なければ、この経文のいずれが真実で、いずれが偽りであるかわからない。これは原書を得るにかぎると考えたのである」(『チベット旅行記』河口慧海著 長沢和俊編 白水社)と。これが慧海をしてチベット行きを決意させた理由です。そして想像を絶する過酷な求法の旅が始まるのです。(梅村敏明) << 何 仏? | 明治の求法僧 慧海(二) >>
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