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慶長の復興から四百年。三井寺再興の礎となった道澄の足跡をたどる。


三井寺はまさに、天下統一抗争のさなかに。

三井寺が不死鳥の寺と言われる所以は、千三百余年の長い歴史のなかで、山門派と寺門派の確執や源氏・平家の対立が原因で何度も焼き討ちや、闕所(けっしょ)(財産没収)に遭いながらも、そのつど様々な人たちの努力のおかげで蘇っていることである。季刊三井寺一一八号の特集「山岡道阿弥」も、光浄院(国宝)を苦難の末、再興した人である。今回の特集、准三宮道澄もまた秀吉の怒りにふれ、闕所された三井寺を蘇らせた偉大な人物であった。

道澄は、天文十三年(一五四四)関白近衛稙家の三男として生まれる。近衛家といえば、始祖・藤原鎌足公以 来、朝廷最高の官職を占める五摂家の一つで、平安時代には、藤原道長、頼通など公家社会最高権門として栄華を極めたことは、よく知られている。早くから天台の門に入り、聖護院門跡、三井寺長吏、熊野三山検校などの要職を歴任する。しかし、時まさに群雄が割拠する戦乱の時代。天下統一の野望を持つ織田信長や武田信玄など強力な軍事力を持つ戦国武将が台頭し、朝廷の力は弱体化の道をたどる。そんななか、朝廷と台頭した武家たちとの間に立ち、勢力争いの調停役に奔走した人物が道澄の兄、近衛前久であった。近衛前久は「天下統一に翻弄された戦国貴族」として名高い。

道澄は、兄前久と共に各地をめぐる。越後の上杉謙信の元に訪れ、乱れた甲信越の平定に尽力し、中国地方にあっては、覇権争いをする尼子家と毛利家との調停役をつとめた。朝廷の最高位にあった近衛家の前久と道澄兄弟は、今で言うフットワークが軽く視野の広い、当時としては特異な存在であったに違いない。
道澄の墓所。三井寺の北縁、琵琶湖を望む山上町の共同墓地「武士ヶ谷墓地」の一郭にひっそりとねむる。


聖護院道澄感状(天正11年5月2日)。智証大師直伝の「授決集伝授」を授けられたときの霊鷲院前大僧正(静覚)宛の礼状。)


聖護院門跡(京都市左京区)

弱体する朝廷の最後の切り札的存在、道澄。

道澄はその政治的手腕はもとより、聖護院門跡、三井寺の長吏として様々な影響力を発揮していた。特に詩歌の才に長けて、多くの歌会、連歌の会を主宰した。天正十六年(一五八八)毛利輝元が上洛した時には三井寺で歌会を催している。"名も高き今夜の月の音羽山詠にあかし夜はふけぬとも"と豊臣秀吉が詠むと、"くる秋のかつ色みする草むらに露おきそふる朝ぼらけかな"と道澄がつけたという記録が『輝元公御上洛日記』に残されている。

秀吉が天下を統一し、ある程度社会が安定したころ、秀吉は道澄を風雅の師として、ある時は政治家としての秀吉の補佐役として、またあるときは宗教的行事の導師として、道澄は必ず秀吉のそばにいたという。また、秀吉は京に建立した大仏殿方広寺の初代住職としての任と、寺領一万石を与えられるが、文禄四年(一五九五)道澄五十一歳の時、北白川にある照高院門跡を興し、隠遁する。

しかし、物語はこれで終わらない。隠遁生活を送っていた道澄に三井寺闕所の報が届く。「寺領取り上げ諸堂取壊」の厳しい令を受ける。世にいう、秀吉の文禄の闕所である。秀吉は三井寺山内にある諸堂をことごとく取り壊し、また他所に移したりした。

また道澄は失業状態になった三井寺の大勢の僧侶を引き取り、黄不動尊・智証大師坐像(御骨大師像・国宝)やその他の仏像宝物等を照高院に預かり、ひたすら三井寺の復興を念じ、秀吉に対して赦免を働きかける。慶長三年(一五九八)八月、毛利輝元、前田利家、徳川家康等の五大老連名による三井寺再興の許可を得る。道澄の熱心な願いが通じ、秀吉は北政所(秀吉の正室)に三井寺再建の遺言を残し、その翌日、波瀾万丈の生涯を閉じる。


園城寺境内絵図(江戸時代)道澄が再興した伽藍は今日まで約四〇〇年間変わっていない。

洛中にひときわ威風を誇っていた方広寺大仏殿 洛外図(部分・南蛮文化館蔵)


秀吉により建立された方広寺の大仏殿は慶長の大地震で崩壊する。巨石の並ぶ石垣が名残をとどめている。

三井寺の復興は道澄なしには語れない。

三井寺境内を歩く。まず桧皮葺きの屋根のカーブが美しい仁王門から入る。この仁王門も数奇な運命をたどっている。当初甲賀の石部にある常楽寺の門として宝徳四年(一四五二)に建立されている。のち秀吉によって伏見城に移築され、さらに今回の慶長の復興で、家康が三井寺に移築したものである。仁王門をくぐり、真直ぐ進む。大きな石段を登ると優美な稜線をもつ桧皮葺きの金堂が姿をあらわす。金堂は三井寺の本堂として本尊弥勒菩薩を奉安する堂宇である。この金堂も秀吉の闕所に遭っている。「園城寺境内古図」によると、かつての金堂は、現在の金堂より一回り大きく威容を誇っていたという。しかし、織田信長の焼き討ちにあい、堂塔を失った比叡山延暦寺に秀吉が移築し、西塔の釈迦堂として現在にいたる。文禄の闕所後、秀吉の正室北政所と徳川家康の尽力により、今の金堂が再建された。何か目に見えぬ因縁めいたものを感じずにはいられない。

金堂の西側の石段を上り、弁慶の引き摺り鐘のお堂を通ると、一切経蔵に突き当たる。一切経蔵と高麗版一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵もまた、道澄と深い縁のあった毛利家の寄進によるものである。

記録によると、毛利輝元は自ら三百名の職人や人足を集め、山口から来援している。また、隣接する三重塔も家康が吉野から三井寺へ移したとされ、唐院灌頂堂、大師堂など三井寺信仰の中核をなす建物群も、この慶長の再興によって現在に至っている。

近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」もこの慶長の再興時に鋳造された鐘である。「昏云、願此鐘声超法界鉄囲幽暗悉皆聞聞塵清浄証円通一切衆生成正覚于時慶長七歳舎壬寅孟夏弐一日長等山園城寺長吏准三宮道澄誌焉……」道澄が記した銘である。再興された伽藍を自らの目で確かめ、美しい梵鐘の音を聴きながら、道澄は慶長十三年(一六〇八)六十五年の生涯を閉じる。

世の平安を願い、人々に安らぎを与え続けて四百年、三井寺は時の為政者に翻弄されつつも、多くの人たちの篤い信仰と努力に支えられ今に至っている。

「国家安康」鐘銘事件のもとになった方広寺の梵鐘)


一切経蔵の内部、高麗版一切経を納める八角輪蔵


毛利輝元によって移築された一切経蔵があった 洞春寺(山口市)と経蔵の礎石。

紅葉が美しい一切経蔵
400年前、道澄によって慶長7年(1602)に鋳造された梵鐘。
近江八景「三井の晩鐘」で親しまれ、ことに音色の良いことで知られ「日本三銘鐘」でもある。
豊臣秀吉の墓所(豊国廟)
京都東山の阿弥陀ヶ峰、
現在の京都女子大学の
山手、約500段の石段を
登りきった山頂に鎮座する。





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