三井寺境内を歩く。まず桧皮葺きの屋根のカーブが美しい仁王門から入る。この仁王門も数奇な運命をたどっている。当初甲賀の石部にある常楽寺の門として宝徳四年(一四五二)に建立されている。のち秀吉によって伏見城に移築され、さらに今回の慶長の復興で、家康が三井寺に移築したものである。仁王門をくぐり、真直ぐ進む。大きな石段を登ると優美な稜線をもつ桧皮葺きの金堂が姿をあらわす。金堂は三井寺の本堂として本尊弥勒菩薩を奉安する堂宇である。この金堂も秀吉の闕所に遭っている。「園城寺境内古図」によると、かつての金堂は、現在の金堂より一回り大きく威容を誇っていたという。しかし、織田信長の焼き討ちにあい、堂塔を失った比叡山延暦寺に秀吉が移築し、西塔の釈迦堂として現在にいたる。文禄の闕所後、秀吉の正室北政所と徳川家康の尽力により、今の金堂が再建された。何か目に見えぬ因縁めいたものを感じずにはいられない。
金堂の西側の石段を上り、弁慶の引き摺り鐘のお堂を通ると、一切経蔵に突き当たる。一切経蔵と高麗版一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵もまた、道澄と深い縁のあった毛利家の寄進によるものである。
記録によると、毛利輝元は自ら三百名の職人や人足を集め、山口から来援している。また、隣接する三重塔も家康が吉野から三井寺へ移したとされ、唐院灌頂堂、大師堂など三井寺信仰の中核をなす建物群も、この慶長の再興によって現在に至っている。
近江八景のひとつ、「三井の晩鐘」もこの慶長の再興時に鋳造された鐘である。「昏云、願此鐘声超法界鉄囲幽暗悉皆聞聞塵清浄証円通一切衆生成正覚于時慶長七歳舎壬寅孟夏弐一日長等山園城寺長吏准三宮道澄誌焉……」道澄が記した銘である。再興された伽藍を自らの目で確かめ、美しい梵鐘の音を聴きながら、道澄は慶長十三年(一六〇八)六十五年の生涯を閉じる。
世の平安を願い、人々に安らぎを与え続けて四百年、三井寺は時の為政者に翻弄されつつも、多くの人たちの篤い信仰と努力に支えられ今に至っている。
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