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その(2) 神出


深緑に映える朱色長等神社から小関越えへ

長等(ながら)神社。鮮やかな朱色の楼門が長等山裾の緑にひときわ冴える。

  現在の楼門は、明治三十七年(一九○四)に建替えられている。全体に中世の様式を用い、細部には彫刻や彩色が施されているが、よく見れば、三井寺の仁王門によく似ている。設計を担当した安藤時蔵技師は三井寺の門を参考にされたといい、大津市の文化財に指定されている。

  その楼門脇に建つ由緒書きによると「日吉社よりスサノオノミコト、オオクニヌシノミコトの二社を勧請したことに始まる。この二社は初め、長等山の山頂に勧請されましたが、のち天喜二年(一〇五四)に現在の社地にうつり、これにより神出(かみで)の地名が起こったと伝えられる」とある。この歴史ある地にふさわしい、神々しい地名の起こりである。

  長等神社と三井寺の関係は古く、天智天皇の大津遷都のころ、大友皇子が天皇の勅を賜って長等山岩座に山王明神を祀ったのが始まりといわれている。三井寺再興の祖、智証大師以来守護神として、天喜二年から今の場所に建っている。

  三井寺に伝えられる園城寺境内古図(重要文化財)には長等神社すなわち新宮権現祠が描かれている。園城寺境内古図は五幅からなり鎌倉末期に描かれたもので、三井寺一山の規模・堂塔伽藍・院坊などの位置関係や構造を知ることができ、中世における神仏習合の実情が伺える

長等神社境内にある平忠度の歌碑「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」  三井寺に残る古文書に「神出年寄次郎左衛門他、村内社届書(元禄五年、一六九二)がある。内容は、神出村にある新宮大明神社(長等神社)の建立についての届出書である。

 すでに元禄時代の初め、神出村という地名が出てきている。しかし、現在に残る地名としては、長等神社のある神出町、神出車路(かみでくるまじ)町、神出小関(かみでこぜき)町と極めて少ない。札の辻を基点として西に延びる北国街道、それよりも三井寺側、北は疏水あたりまでを神出村と称したと思われる。

鎌倉時代の園城寺境内古図(重文)、左下には長等神社(新宮社)が描かれている。 楼門から続く落ち着いた石畳、それをまたぐように立つ石鳥居、その両側が旧町名でいう神出町(現在は三井寺町)である。かつては、西国三十三所観音霊場めぐりの参詣客、あるいは全国からやってくる旅行客のために用意された数多くの旅館が立ち並んでいた。現在もこの地で旅館業を営まれている「植木屋」さんを訪ねる。
  往時を偲ぶ古い写真を前に、「先代から聞いた話ですが、宿泊客が多くて、向かいの家に味噌を借りに行くにも、人の波で、通りを渡るのが大変でした」というほどの賑わいだった。結局、この旅館がなぜ、植木屋という屋号なのか先代には聞かずじまい、それが残念でならないとおっしゃった。

長等神社本殿 大津市指定文化財の楼門

現在の植木屋旅館大正2年、三井寺で開催された壺坂観音の出開帳の賑わい、画面左上に長等神社の石鳥居がみえる。

大正期の観音堂からの眺望 元禄5(1692)年の神出村内社届書



小関越えから桜の名所長等公園へ

 長等神社前に、「神出小関町」という古い町名表示板がある。今はほとんど目にしない旧町名表示板。日赤病院の看護師学校の前の小道を行くとT字路に突き当たる。
その道が小関越である。その道端に「右三井寺、右小関越三条五条いまく満京道、左り三井寺是より半丁」と三面に文字の刻まれた小さな道標がたっている。
道標のいまく満とは、西国三十三所観音霊場第十五番の札所である京都の今熊野観音寺のことで、十四番目の三井寺からの巡礼道としても、小関越が利用されていたことがうかがえる。

その小関越を左に曲がらずに、真直ぐ行くと長等公園に出る。桜の名所として名高い長等公園の入口近くに、慶祚阿闍梨(そあじゃり)の入定窟がある。

慶祚は十世紀末、山門(延暦寺)と対立していた当時の三井寺を隆盛にし、五別所の一つ尾蔵寺を開いた人として知られている。
  慶祚の入定窟は慶祚の墓といわれている無縫塔の前面の下側にあって、石窟には石造の坐像が安置されている。この窟の前には参拝者向けの屋根が設けられ、献灯の提灯が吊り下げられ、月命日の二二日には多くの参拝者で賑わう。
 
この石室は、石組などから古墳の石室を利用したものと見られ、天井部分などは後世によるものだと思われる。

慶祚阿闍梨の坐像は結跏趺坐(けっかふざ)で、右手に念珠、左手には三鈷を握り、三重になった框の上の蓮台に坐るという姿である。この像は室町時代末期の製作といわれている。

小関越の道標 長等公園入口付近にある慶祚阿闍梨の入定窟


車路。歴史の重みと貴人を乗せた牛車が行く

次に神出車路町にある大練寺を訪ねる。かつて練貫水(ねりぬきのみず)として世に知られた名水が湧き出ていた。この清水で天智天皇の衣を練ったことから、その名が起こったといわれている。また、豊臣秀吉が来寺したとき、僧侶がこの水で茶を点てたところ、大変おいしかったので賞した。その後も聚楽第から日々この水を汲んでお茶を味わったという。
  しかし、その名水も疏水工事で水脈は切れ、水は湧かなくなった。練貫水にちなんで泉湧山大練寺と称している寺の名が井戸の跡とともに残っている。
また、天智天皇が同寺に行幸したとき、御車を止めたことから、車路と呼んだともいわれている。
境内には、安政の大獄で捕らえられ、獄中で病死した梅田雲濱(うめだうんびん)の師、上原立斎の墓がある。上原立斎は寛政六年(一七九四)高島郡の生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた。在京中にその名声を聞いた小浜藩士、梅田雲濱らと親交を深めた。梅田雲濱は坂本町にある米商、中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開く。

  立斎は、娘しんを雲濱に嫁がせている。しんは、書画にも優れた才女で、尊皇攘夷運動に奔走する雲濱を貧困生活にもめげず、よく尽くしたが二九歳の若さで病死する。
 激動の幕末期を、足早に駆け抜けた若き学徒のドラマがここにあった。現在、長等小学校の校門前に梅田雲濱を顕彰する碑、「梅田雲濱先生湖南塾址」がある。

神出車路町の古刹・泉涌山大練寺、境内には練貫水と江戸時代の儒学者・上原立斎の墓所が残る。


桜見物、最高のスポット鹿関橋
神出車路をさらに北に進むと琵琶湖疏水に突き当たる。琵琶湖疏水は明治十七年(一八八五)国家の威信をかけ着工。計画から施工まで、日本人だけで成しえた一大国家プロジェクトで、その予算は今の貨幣価値でいえば、一兆円を超える大事業であった。  琵琶湖疏水は京都市民の飲料水の供給はもとより、船による物資の輸送、水力発電用水、灌漑用水などの目的で計画され、多くの困難を克服して明治二十三年完成した。  その琵琶湖疏水をまたぐように、石造りの立派な橋が架かっている。鹿関橋である。桜のシーズンともなると、大勢のカメラマンが遠くにのぞむ三井寺観音堂、疏水と桜をテーマに写真を撮ろうと、先を争って場所取りをする。 桜の季節は言うに及ばず、新緑、紅葉、初霜、初雪……四季折々表情を変えるこの風景は、多くの人々に愛され続けている。
長等小学校の校門脇に立つ梅田雲濱の湖南塾記念碑







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