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「雨月物語」と三井寺 その(3) 「雨月物語」と三井寺


上田秋成の墓所を探して、京都南禅寺近くにある西福寺を訪ねる。南禅寺を散策する観光客の喧騒が嘘のように、 ひっそりと佇む西福寺の奥庭に「上田無腸翁之墓」という墓碑があった。
それにしても墓に刻まれている「無腸」という言葉、なんとも不思議な耳慣れない言葉である。腸が無い蟹を象徴する、秋成の号である。そして墓標 をささえる土台石も蟹型をしている。 無腸の号は、この世を蟹のごとく、横ばいに歩んだ秋成の生き様そのもので あった。



三井寺の僧が鯉になった。

上田秋成の代表作『雨月物語』、全九話の中の一編、夢応の鯉魚は魚にな った僧侶の話である。雨月物語は怪奇 小説として知られ、そのほとんどが恐 怖や怨念などが含まれた物語であるが、 夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)は別格で、画僧が魚に変身 して遊ぶ楽しいファンタジー小説でも あった。

物語は、平安時代の中頃、三井寺に興 義という絵の巧みな僧がいた。実在の人物と伝えられ、『寺門血脈譜』や『諸家体系図』によれば、興義は文章博士・藤原実範の第六子で、寛治五年に阿遮梨となった三井寺の碩学であった。

三井寺所蔵の『寺門血脈譜』に記された「興義」。

興義は、寺務の暇をみては琵琶湖に船を浮かべ、漁師から買い取った魚を放し、その魚の泳ぎ回るさまを見てはそれを絵に描いた。時には絵のことばかり考え、疲れて眠りに落ち、夢の中で水に入り、魚と遊びたわむれた。目が覚めるとすぐにそれを絵にして、夢応の鯉魚と名づけた。絵を欲しがる者が先を争ってやってきたが、花鳥山水の絵だけを求めに応じて与えるが、鯉 の絵だけは誰にも与えなかった。

琵琶湖には、いまも近江八景や竹生島の景勝地が残る。

ある年、興義は病気にかかり、七日目に呼吸が止まり死んでしまった。弟子や友人が集まり、嘆き悲しんだが、 胸のあたりにまだ暖かみが残っているので、生き返るのではないかと見守っ ていると、三日目に深い眠りから醒めた。興義は檀家の平の助の殿が、いま 新鮮な魚をさばいて、宴会をしているはずだから、ここに呼びなさい、と命 じて使いをやると、果たして平の助の 殿は宴会の最中であった。そして宴会の様子を事細かくいい、そしてなぜそ の訳が分かったのか話し始めた。
「私は死んだことに気がつかず、湖神から金色の鯉の着物を授かり身に付 けて、近江八景の名所をめぐりました。 水中から眺める近江八景は絶景でした。 しかし、私は空腹をおぼえ、餌に飛びつき、漁師に釣り上げられました。」
「私を釣った漁師は文四といい、日頃から魚を買い取っている漁師でした。 釣り上げられた私は、大きな声を出し て、『文四、鯉になったのは私だ』と 叫んでいるのに、文四は大きな包丁を出して、私を料理しようとするのです。 そしてその側には、平の助の殿が舌なめずりして宴会の用意をしているではありませんか。文四、私だ、興義だと 叫んでいる時に目が覚めたのです。」
平の助の殿は「そう言われてみれば、 確かに鯉の口がパクパクと動くのを見たが、声は聞こえなかった。それにつけても不思議なことだ」と語った。
興義はその後、病も癒えて天寿を全 う。臨終のおりに、鯉の絵を琵琶湖に散らしたところ、鯉は紙を抜け出し、 泳ぎ始めたという。そういう訳で彼の絵は世に残っていない。


雨月物語は霊界と非現実世界を描く。


数多くある秋成の著作中、もっとも 有名な作品は雨月物語であろう。泉鏡花や佐藤春夫が心酔し、そして著作も 残している。また映画『雨月物語』は 溝口健二監督、田中絹代主演で昭和二十八年封切された。

秋成の読本は伝奇小説に属し、「幽霊物語」と自らも言うとおり、霊界と現実とを往還する、死してなお現世に 未練を残す霊や妖怪を描いている。雨 月物語は秋成三十五歳の時から想を練 り、推敲を重ね、ついに安永五年、秋成四十三歳の時刊行する。

雨月物語の版本

雨月物語に収録される九編は、いずれも現実と非現実の境界を舞台とした怪談である。その九編を紹介してみると「白峰」では、崇徳院の怨念を…。 「菊花の約」では義兄弟再会の約束を 果たす魂。「浅茅が宿」では夫一筋の 妻の霊を、そして今回の特集、三井寺 の僧侶の鯉への身代わり描く「夢応の鯉魚」。「仏法僧」では関白秀次の修羅 を、「吉備津の釜」では妻磯良の怨念 を、「蛇性の婬」では女児の恋慕を、「青頭巾」では行脚僧の食人鬼を、「貧富論」では黄金の精霊が活躍するなど、 霊・怨霊・妖怪など登場し、読者を異 世界にいざないつつ、人間の本質をと らえた珠玉の短編集である。




鬼才、放浪子、上田秋成とは。

西福寺に安置されている秋成像


上田秋成は、享保十九年(一七三四) 大阪曽根崎に生まれる。その秋成を語 るには二点の重要なキーワードがある。 第一に私生児として生まれたことであ る。四歳で実母から離され、商家嶋屋へ養子と出される。秋成は「我は捨てられたる…」と後年語っている。
もう 一つは、子供のころ疱瘡をわずらい、 命はとりとめたものの、手指が畸形と なったことである。

秋成の生まれ育った大阪の堂島あたり


香具波志神社出生の秘密と、両手指の畸形。秋成が背負わなければならない内面的な苦のらもの悩を、自らを「放浪子」と称した。家業の嶋屋(油屋、商いはずいぶん多かった)の商売には背を向け、町人学校 懐徳堂へ通い、国文学などの教養を身につけ、俳諧の世界へとのめり込む。

宝暦十年(一七六〇)二十七歳になった秋成は植山たまと結婚。後に秋成の文学に大きな影響を与えた瑚璉尼で ある。翌年、養父上田茂助が亡くなり、 文字通り嶋屋の当主となるが、あいかわらず商売には身が入らず、俳諧に遊 ぶ日々を過ごす。そして、明和三年処女作、浮世草子『諸道聞耳世間猿』を刊行する。その後、賀茂真淵一門の国 学者、加藤宇万伎に師事、『世間妾形気』を上梓する。

しかし、文芸の世界に没頭する裕福な商家の主人としての生活は、明和八年(一七七二)の大火で終止符を打つ。 嶋屋焼失、破産した秋成は「三十八と いふ齢より泊然としてありか定めぬ」 暮らしを強いられる。秋成は嶋屋再興も果たせぬまま、加島村に居を定め、 医術を学んで再出発することになる。 その師は儒医都賀庭鐘であった。

秋成は医業に誠心誠意打ち込み、医はこころ、仁術であると心得「合点のゆかぬ症」にも徹底して患者に尽くし、病人、家族とも受けがよかったと自伝 に記す。医者として成功を収め、また 近隣の文化人を集め、『竹取物語』や 『伊勢物語』を講義する。

安永五年、四十三歳にして居を尼崎 町(大阪市中央区高麗橋付近)に移し、 医療活動を続けながら『雨月物語』を、 また源氏物語『ぬば玉の巻』の注釈を 著す。与謝野蕪村、高井几薫らと親し く交わりながらも、文人として、また 国学者としての独自の世界観を構築し ていく。

そして有名な話として残る、国学の巨匠本居宣長との論争へと続く。後に 『呵刈叚』にまとめられた両者の論点 は、伊勢の片田舎で多くの弟子を抱え、 昔風の国学を講ずる宣長を「…弟子ほしさの古事記伝兵衛という」と酷評し、 地方人宣長の皇国至上主義と、都会人、 秋成の感情的ないさかいであった。

また、俳聖と崇められていた松尾芭蕉に対し「学ぶまじき人の有様」と、権威に対する痛烈な批判を行っている。 また、その批判精神は千利休が極め た茶道にも及ぶ。権威的、形式的にな った侘茶(抹茶)道に対し、秋成は自由で、手軽に楽しめる煎茶の世界に没頭。 秋成は煎茶の歴史、性質、煎法など、 煎茶万般にいたる書『清風瑣言』を著す。そして自ら生涯の友となる茶器や 急須を作るなど、煎茶道への貢献は顕 著であった。

天明七年(一七八七)、五十四歳の 秋成は医業を廃して、淡路庄村に引きこもる。長年にわたる医者生活のため健康を害したとも、誤診があったとも言われている。また、宣長との論争 よる精神的な疲れ、市中の喧騒に対する嫌気などが考えられる。

晩年をすごした知恩院


寛政五年(一七九三)子供のいない 秋成夫妻がたいそう可愛がっていた、 隣家の幼児が死ぬ。夫妻の悲しみは深 く、ついに安住の場と定めた淡路庄村 を去って、京都知恩院の門前、袋町に移住する。京都は若いころから何度も訪れた秋成ではあったが、いざ住んで みると、軒向かいの村瀬栲亭のいう通 り、決して住みやすい所ではなかった。 後に京都での生活をふりかえり「十六年すんで、又一語くわへて、不義国の貧乏国じゃと思ふ」と述べている。



寛政九年(一七九七)その年も暮れようとするころ、四十年近く秋成の支えとなってきた妻、瑚璉尼が急死する。年老いた秋成にとって、これは打撃 あった。妻の野辺送りに際し、柩の内に「つらかりし此と月のむくいしていかにせよとか我をすてくむ」と書き付けている。最晩年になって『胆大小心録』『自伝』『春雨物語』などを書き上げた。そして文化六年六月、わずかの門人にみとられて、羽倉信美の屋敷にて永眠する。
秋成の眠る西福寺



奇想の画家、伊藤若冲が彫った蟹の台座に「上田無腸翁之墓」銘の墓石が建っている。今年は、上田秋成没後二百年を迎える。来年の秋には京都国立 博物館で記念の展覧会が、開催される予定である。



墓石は文政4(1821)年の十三回忌に建立された


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