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「雨月物語」と三井寺 その(4)太平記に描かれた三井寺


"不死鳥の寺と呼ばれている三井寺。今回の特集『太平記』が書かれた時代にも、壊滅的な焼き討ちにあっている。三井寺にとって、太平記の舞台である南北朝時代が、いかに苦難に満ちた時代であったか、『太平記』をひも解きながら検証してみる。


複雑な南北朝時代

『太平記』は、『平家物語』と並ぶ軍記物語の名作として知られている。南北朝時代の戦乱の様子を描いたものであるが、戦乱が複雑な経過をたどったため、足利尊氏、新田義貞、楠正成など表舞台に登場する武将の名前は覚えているが、わが国の歴史にどのような影響を与えたか、いま一つ理解出来ない時代ではないだろうか。

後醍醐天皇陵のある塔尾山如意輪寺
(奈良県吉野町) 境内の芭蕉句碑「ご廟年経て忍は何をしのぶ草」

すこし、復習してみると……。正慶二年(一三三三)、鎌倉幕府が滅亡したあと、ただちに京都に戻った後醍醐天皇は新しい政治を始めた。新たな幕府を置かず、院政、摂政・関白もない天皇の親政の実現を目指した。「建武の新政」である。

しかし、天皇中心の新政策は公家を重視し、それまでの武士の社会につくられていた習慣を無視したものであった。この形勢を見た足利尊氏は、鎌倉で起きた中先代の乱を鎮めた後、武家政治の再興を目指して後醍醐天皇に反旗をひるがえした。いったん敗北した尊氏だったが、九州に逃げのび態勢を立て直し、湊川の戦いで楠正成を打ち破ると、ついに京都を奪回。建武の新政は、わずか三年たらずで崩壊した。

その後、尊氏は後醍醐天皇との和解を計り、三種の神器を手に入れて持明院統の光明天皇(北朝)を擁立した。一方、後醍醐天皇は京都を脱出して、奈良吉野へ逃れ、光明天皇は正統ではないと主張、吉野に南朝を開く。正統を主張する二つの朝廷が対立し、以後六十年にわたる南北朝の動乱が始まる。

如意寺境内にある後醍醐天皇陵

長大な軍記物語、『太平記』


鎌倉時代の繁栄の様子を描いた園城寺境内古図(重要文化財)。
この伽藍は、建武の3年(1336)正月に新田義貞、山門衆徒など
南朝方によって焼亡した。 この様な社会背景の中で『太平記』は記された。『太平記』は全四十巻で、南北朝時代を舞台に、後醍醐天皇の即位から、鎌倉幕府滅亡、建武の新政とその崩壊後の南北朝分裂、観応の擾乱、二代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任まで、文保二年から貞治六年(一三一八〜一三六八)を書く軍記物語である。

作者・成立時期は不詳であるが、今川家本、古活字本、西源院本など諸種があり「太平」とは平和を祈願する意味で付けられたと考えられる。その内容は三部構成で、後醍醐天皇の即位から鎌倉幕府の滅亡を描いた第一部(巻一〜十一)、建武の新政の失敗と南北朝分裂から後醍醐天皇の崩御までを第二部(巻十二〜二十一)足利幕府内部の混乱を描いた第三部(巻二十三〜四十)からなる。

太平記は中世から謡曲や浄瑠璃などによって語り継がれ、室町時代には太平記に影響され、多くの軍記物語が書かれている。また、江戸時代になると「太平記読み」による講釈で語られるようになり、庶民に大きな影響を与えた。

(重要文化財) 皇居外苑にある楠木正成像

太平記全体の構想にあるのが儒教的な大義名分論と、君臣論、また仏教的因果応報論が基調にあり、宋学の影響を受けたとされる。後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇として描かれているが、のちに水戸光圀は修史事業として編纂した『大日本史』には天皇親政をめざした後醍醐天皇こそ正統な天皇であると主張した。


これにより足利尊氏は逆賊であり、南朝側の楠正成や新田義貞などは忠臣として美化され、これがのちに水戸学として幕末の尊皇攘夷運動、さらに太平洋戦争の皇国史観へと至る。


太平記巻十五 三井寺の運命

三井寺の本堂・金堂(国宝)太平記の時代からさかのぼること、およそ三百年。天台宗では、延暦寺(山門)と三井寺(寺門)が対立する。三井寺が、長暦二(一○三八)年、独自の戒壇(戒律を授ける儀式を行う道場)設立を朝廷に奏請して以来、両寺の対立が激化。南北朝時代になっても両派のいさかいは続き、建武三(一三三六)年正月に新田義貞と比叡山の僧兵によって、三井寺は炎上する。


戒壇設立をめぐって山門派と争った三井寺の頼豪阿遮梨ゆかりの十八明神社
太平記巻十五「三井寺合戦の事」に
新田の三万余騎の勢、城の中へ懸けはいって、まづ合図の火をぞ揚げたりける、これを見て山門の大衆二万余人、如意越えより落ち合ひて、すなはち院々・谷々へ乱れり、堂舎・仏閣に火を懸けて、をめき叫んでぞ攻めたりける、猛火東西より吹き懸けて、敵南北に充ち満ちたれば、今は叶はじと思いけん、三井寺の衆徒ども、あるいは金堂に走り入って、猛火の中に腹を切つて伏し、あるいは聖教を抱いて幽谷に倒れまろぶ…… されば半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の中に討ち倒れたる敵を数ふるに、七千三百余人なり……


不思議な伝説を伝える「弁慶の引き摺り鐘」 二代将軍・足利義詮が三井寺に対し「勢多橋」警護を命じた文書。現在の瀬田の唐橋。

この合戦で、三井寺は炎上し、金堂本尊の弥勒菩薩も首を切られ、山(比叡山)法師の落書きが添えられ、藪に放置されていたとある。また焦土と化した境内には、空しく焼け残った梵鐘があった。この鐘は、むかで退治で有名な俵藤太の逸話で知られ、後段「弁慶の引き摺り鐘」の伝説として残る鐘である。山門、寺門何度目かの争いのとき、山門側が持ち帰った鐘で、当時の幕府の働きによって三井寺に返された。『太平記』にも「昔竜宮城より伝わりたる鐘なり。その故は、承平の頃俵藤太秀郷という者ありけり。ある時この秀郷ただ一人勢田の橋を渡りけるに、長二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たわって伏したり。両のまなこ輝いて、天に二つの日にかけたるが如し」とある。

足利尊氏(京都・等持院)

三井寺は、源頼義(新羅三郎)が前九年の役に出陣するにあたり三井寺に詣で、新羅明神に戦勝を祈願したことから「源氏数代崇重の寺」といわれている。この時代にも、源氏の足利尊氏に味方した三井寺は、天皇家や公家、豪族や武士たちの権力争いに翻弄される。

その後、室町幕府を開いた尊氏は、貞和年間(一三四五〜一三四九)、「三井寺合戦」で焼失した三井寺の諸堂社を再興している。尊氏が再建した三井寺の新羅善神堂(国宝)

現在、三井寺境内の北側、大津市役所の裏手に、尊氏が再建した新羅善神堂は建っている。現存する建築物では一番古く、六百六十余年風雪に耐え、今も人々の篤い信仰に守られている。

三井寺が不死鳥の寺と呼ばれている所以である。


尊氏ゆかりの等持院(京都市北区)。 足利尊氏邸・等持寺跡(京都市中京区)。
 等持院境内にある尊氏の墓所。



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