その(6)『今昔物語集』と三井寺
「今ハ昔」という書き出しで始まることに由来する『今昔物語集』は、説話文学の宝庫として知られている。
三井寺関係の説話も多く収録されているが、なかでも地蔵菩薩にまつわる霊験譚が、実睿という三井寺の僧が書いた著作に由来していることはあまり知られていない。
多彩な仏教説話を通して、日本仏教の根源にせまる『今昔物語集』を紐解く。
芥川の生死感を決定付けた羅生門
「ある日の暮方の事である。一人の下人が羅生門の下で雨やみを待っていた」で始まる芥川龍之介の小説『羅生門』は、大正四年に発表された。
題材を『今昔物語集』からとった物語小説の粗筋は、時は平安の頃、飢饉などの天変地異が続き、都は疲弊していた。そんな時、羅生門の下で、一人の下人が途方に暮れていた。数日前に、主人から解雇され、いっそのこと盗賊にでもなろうか、と思いつめるも踏ん切れがつかない。
荒廃した楼閣には、身寄りのない遺体が多数打ち捨てられていたが、その中に灯りがポツン。老婆が松明を灯して、若い女性の遺体から髪を引き抜いていた。これに怒りを覚えた下人は、刀を抜き老婆に躍りかかる。
この老婆は、抜いた髪で鬘(かづら)を作り売ろうとしていたのであった。それは、生きていく為に仕方のない行為。遺体となった女も生前には蛇の干物を干魚と偽り売り歩いていたのである。共に生きる為の所業、遺体となった女も許すであろう、と老婆は言う。
これを聞いた下人は、老婆を組み伏せて着物をはぎ取り、「己もそうしなければ、餓死する体なのだ!」と言い残し、漆黒の闇の中に消えていった。
昭和二十五年、黒澤明監督・三船敏郎主演によって映画化され、ヴェネチア映画祭のグランプリ、アカデミー賞の外国語映画賞などを受賞。内外から異色作として高い評価を得た。
スケールはアジア世界に広がる
『今昔物語集』は、平安末期(十二世紀前半)に成立した説話集である。
収められた話しの数は千を越えており、天竺(インド)・震旦(中国)・本朝(日本)の地域別に、それぞれの主題に沿って三十一巻にまとめられた日本最大の物語集で、漢字片仮名まじりの文体による、人間の生死に関わるあらゆる姿を描き出している。
ところが、そもそも何時・誰が・何のために・どのように作ったものか、その多くは定かでない。
しかし、当時の全世界である「三国観」は、今でいえばアジア世界そのものであり、当時にあっては例のないスケールの大きな作品であったことは事実であろう。
物語は「天竺」から始まり、釈迦の生涯を問い直し、仏教が如何にして広まり、わが国へ定着していったかが語られ、後半部分では多彩な世界が繰り広げられている。
そんな『今昔物語集』の、著名な説話をひもといてみる事にしよう。
巻一から巻三までが仏伝で、巻四では釈迦涅槃後に仏教が如何に広まったか、巻五では釈迦出生以前の天竺世界がどうであったかを語っている。
震旦部は巻六から巻九までが仏法譚、巻十で中国の歴史をたどる。巻十一から巻二十までが「本朝仏法部」で、わが国における仏法にまつわる説話が集成されている。聖徳太子による四天王寺縁起や、飛行中に女性のふくらはぎに欲情し神通力を失った久米仙人の久米寺縁起に、安珍・清姫の話など、地蔵菩薩を中心とした霊験譚ほか怪異話が集成されている。
巻二十一から巻三十一は、仏教色の薄い作品群で、「本朝世俗部」と称されている。陰陽師として有名な安倍清明の超人的呪力の話や芥川龍之介の『芋粥』、『鼻』、『羅生門』に『藪の中』もこの世俗部の中に材を求めている。
そこで三井寺と『今昔物語集』との関わりを探れば、「本朝仏法部」のなかに見ることが出来る。
『地蔵菩薩霊験記』と地蔵信仰
平安時代、貴族社会で発達した天台浄土教のもとで発生した地蔵信仰は、やがて民間にまで広く浸透し、新しい地蔵信仰が生まれてくる。諸行往生すべなき民衆の間に「ただ地蔵の名号を念じて、さらに他の所作なし」という地蔵専修が成立した。
『今昔物語集』が成立する前の十一世紀中ごろ、三井寺の実睿という僧が民間地蔵説話を集成して『地蔵菩薩霊験記』という書物を編纂した。この漢文体の原本は散逸したものの『今昔物語集』の巻十七に大部分の説話が和文体に改められ再録されている。
そこで、その内容を紹介してみよう。巻十七の第十二「改めて地蔵を綵色せる人、夢の告げを得たる語」と第十九「三井寺の浄照、地蔵の助けによりてよみがへるを得たる語」である。
まず、「改めて地蔵を綵色せる人、夢の告げを得たる語」は、或る人が阿弥陀仏を造る折、古い地蔵菩薩を綵色し直し正法寺に安置した。その後、正法寺でこの地蔵菩薩を見つけた人が補修すると、夢に十四、五歳のこどもが現れて「わたしは、三井寺の前の上座の僧であった、その妻である尼さんが作ったものである」と説明した。
その際、後ろに立っている人がいたため「その方は誰ですか?」と問うたところ、「わたしを作った方で、自分の保護の下においてお守りしているのです」と返したそうである。それからふと北東方向を見ると、二十余体のお地蔵さんがすべて南方向を向いていたというところで、夢が醒めてしまった。
その有難さに涙を流し、ずっとそのお地蔵さんを信心したそうである。この事からいえるのは、真心込めてお地蔵さんを作った者はもとより、ちゃんと信心すればご加護はあるものだと語り伝えられたという。
同じく第十九「三井寺の浄照、地蔵の助けによりてよみがへるを得たる語」は、三井寺の浄照という僧が十一、二歳時分の話で、まだ出家前に同じ年頃のこどもたちと遊んでいた時、遊び半分にお坊さんの姿を模して木を刻み、それを地蔵菩薩と名付け、季節の野の花も添えて古寺の仏壇辺りに置きっぱなしで遊んでいた。
その後、浄照は、師に随って一所懸命に学び、高僧と呼ばれる様になった。しかし、三十歳の時、重い病気のため命を落としてしまう。その際、突然に荒々しい二人の者に抱え取られ、山の麓に連れていかれてしまった。そこには暗く大きな穴がひとつ…、そこへ浄照は落とされてしまう。
そんな時に心の支えとなったのは、生前に法華経を唱え、観音さまやお地蔵さまを敬っていたので、どうかご加護をと念じ続けた。落ちる間、あまりにも風が強すぎて目が開けていられないため、手で目を覆っていた。
そして、堕ちた先はなんと閻魔の廟。そこで四方を見回したところ、多くの罪人が泣き叫ぶ声が雷鳴の様に響いていた。そんな時一人の小僧さんが現れ、
「覚えていますか。わたしは、あなたが子供の頃遊び半分で作ってくれた地蔵です。それが縁となり、日夜あなたを護ってきました。しかし、わたしが他行に励む間にあなたがここに堕ちてしまったのです。」と話した。
これを聞いて地にひざまづき涙を流す浄照を閻魔の前に連れて行き、許しを乞うたところ忽ち蘇ったという。その後、浄照は、諸々の場所で永く仏道の修行を続けたという事である。
子供でも遊び心で地蔵菩薩を刻んだだけでも、これだけの功徳があるのだから、ましてや心を込めて供養したならば如何程のものであろうか、と語り伝えられている。
そして、様々なる災いを除き、五穀豊穣、子孫繁栄を願う人々の生活に根ざした地蔵菩薩への信仰は、やがて毎月二十四日の縁日には人々が集まり、ことに旧暦七月二十四日の前日の宵縁日を中心とした三日間は、地蔵盆として今の世にも脈々と受け継がれることになった。来る地蔵盆の頃には、子どもたちの喚声を背景に涼風よぎる木陰で、『今昔物語集』をひもとくという夏の一日も、また一興であろうか…。
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