その(7)謡曲「三井寺」
能は日本人が世界に誇りうる古典芸能である。2001年、ユネスコの世界無形文化財に登録された。能は謡曲と舞、囃子からなり、謡曲は能の物語にあたる部分の台本に相当し、セリフとしての語りの部分と、歌の部分に分けられる。いずれも一定のリズムや節回しに乗せて謡われる。
謡曲はそれ自体が鑑賞の対象になり、徳川時代から風流人士の趣味の中でも高雅なものとされた。
舞台は清水寺から始まる。
能「三井寺」は、中秋の名月の三井寺を舞台に親子の再会を描いた名曲として知られている。わが子をさらわれた母が、狂乱状態となって、清水の観音さまのお告げに従い、三井寺を訪れ、鐘を撞くことが機縁になって子どもとめぐり会う、というストーリーである。
舞台には、千満の母が笠をかぶって登場。
南無や大慈大悲の観世音さしも草、さしもかしこき誓ひの末、一称一念なほ頼みあり。ましてやこの程日を送り、夜を重ねたる頼みの末、などかそのかひならんと、思ふ心ぞあはれなる。
母は、清水の観音さまに子を失った悲しみを訴え、わが子に会わせ給えと一心に祈る。枯れた木にさえも花を咲かせるのが観音さまのお力、それなら、まだ若木のようなわが幼子にお慈悲によって会えるはず、どうして会えないという事がありましょうか、と。
やがて眠りに落ちた母は、わが子に会おうと思うならば、急いで三井寺に参るのがよいとの霊夢を得る。
あらうれしと御合せ候せふものかな。告に任せて三井寺とやらんへ参り候ふべし。
場面は三井寺。舞台には木で組んだ鐘楼があり、上部には小さな鐘が飾られている。時まさに中秋の名月。三井寺の住僧が弟子・千満を連れて講堂の庭での月見に出かける。そこへ子を失った母が、竜宮から持ち帰ったと伝える三井の名鐘を、龍女成仏にあやかって、自分も撞きたいと近付く。住僧は制止するが、母は中国の古詩を持ち出して、詩聖でさえ、名月に心狂わせて、高楼に登り鐘を撞くというのに、ましてや狂女の私がと、鐘を撞いて舞う。
憂き寝ぞ変わるこの海は、浪風も静かにて秋の夜すがら月澄む。三井寺の鐘ぞさやけき
やがて、弟子の千満は住僧に女の郷里を尋ねるよう頼むと、女は駿河の国清見ケ関の者であると答え、女は千満がわが子であることを知る。
親子の為の契りには、鐘故に会う世なり、嬉しき鐘の声かな
かくて母子は、三井の名鐘の縁によって再び巡り会うことがかなう。離ればなれになった親子の心情を描くに琵琶湖上に輝く名月と湖面に響く鐘の音を配した「三井寺」の舞台は、まことにふさわしいものとなっている。
かくて伴ひ立ち帰り、かくて伴ひ帰り 親子の契り尽きせずも、富貴の家となりにけり。げにありがたき孝行の威徳ぞめでたかりける。威徳ぞめでたかりける。
琵琶湖畔名所づくし
近江八景「三井の晩鐘」で有名な三井寺であるが、能「三井寺」でも、母親が三井寺へ詣る道すがら、様々な名所旧跡を巡る見せ場、聞かせ場が盛り込まれている。
志賀の山越えを過ぎると、はるかかなたに鳰の湖。高くそびえる比叡の山。さあ、早く古里へ帰ろう、そして志賀の辛崎の一本松を訪ねてみよう。
月は山の上にあるのに、時雨のような音をたてて、吹き過ぎるこの湖。粟津の森も見え、湖をへだてて彼方に澄んだ月の光のもとに鏡山が見える。山田や矢橋の渡し舟は、月が誘うとおのずから、舟も誘われて出て行くことだろうと。一切変化のない能舞台に、地謡が語る道行に、切々と情景が目に浮かぶ。いわば物語に関係のない部分での情景描写がなされている。能という芸能の奥深さとサービス精神を垣間見ることができる。
近江は能楽の舞台としても、数多く取り上げられている。「竹生島」「蝉丸」などが有名である。そんな歴史と文化をもつ大津市でも、伝統芸能を継承し、脈々として現代に引き継ぐ「おおつこども能楽教室」などの新しい動きがはじまっている。
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