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馬琴「頼豪阿闍梨恠鼠伝」と三井寺 その(9)馬琴「頼豪阿闍梨恠鼠伝」と三井寺


 三井寺には数々の伝説や寓話が語り継がれている。今回特集の「頼豪阿闍梨恠鼠伝」も様々なジャンルに影響を及ぼした作品である。江戸時代、多くの庶民に支持を得た読本、歌舞伎。そして、今なお推理小説や、アニメーションの世界にも登場する妖怪頼豪鼠。

 曲亭馬琴の筆致がさえ渡る「頼豪阿闍梨恠鼠伝(らいごうあじゃりかいそでん)」を紐解いてみよう。


江戸一番の流行作家馬琴

滝沢馬琴(1767〜1848年)  曲亭馬琴。『南総里見八犬伝』の作者として名高い。馬琴は江戸時代後期、明和四(一七六七)年、江戸深川(現江東区)の旗本御家人、滝沢運兵衛の五男として生まれる。代表作『南総里見八犬伝』は戦国時代、安房の地を拠点に活躍した里見氏の歴史をもとに「勧善懲悪・因果応報」をテーマにした痛快歴史小説である。

 文化十一(一八一四)年、最初の五冊を出版してから、全百六冊を出し終えるのに二十八年もの月日を費やした大作である。詳しくはあまりに長大な物語ゆえ、触れる事はできないが、同時期活躍した上田秋成の『雨月物語』などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作であり、日本の長編伝奇小説の古典の一つである。

 また、馬琴はほとんど原稿料のみで生計を営むことができた最初の著述家であった。一般的には滝沢馬琴と呼ばれることが多いが、これは明治以降に流布した表記であり、現在確認できる限り本人は滝沢馬琴という筆名は用いていない。

 その馬琴が書き記した『頼豪阿闍梨恠鼠伝』の背景を探ってみよう。


鉄鼠の怨念はかけめぐる

日吉大社の山王御輿  馬琴が活躍する七百五十年ほど前、平安時代の中頃、三井寺に頼豪(一〇〇二〜一〇八四年)という高僧がいた。この頃の天台宗は比叡山延暦寺を中心とする山門派と、三井寺を中心とする寺門派の二つに分裂し激しく争っていた。

 その主な原因は、三井寺には正式に得度させる施設(戒壇という)がなく、また、戒壇には朝廷の許可が必要とされていた。朝廷に信の篤い三井寺にとって、それらを手に入れる事は長年の悲願であった。しかし、延暦寺は何度も強訴という非常手段により、朝廷に圧力をかけ戒壇設立を拒んでいた。この戒壇設立問題で、記録に残っているものだけでも三井寺は、七度も延暦寺に火をかけられている。

比叡山延暦寺の根本中堂(右)と戒壇院(左)

 この物語の主人公頼豪は、『平家物語』にも有験の僧と評されているほど、祈祷にも優れた実在の僧侶で時の長吏行円から受法、実相房頼豪と称した。その評判は都にも聞こえ、時の天皇であった白河天皇から皇子誕生の祈祷を命じられる。そのとき「無事皇子が生まれたら、お前の望みは何でも叶えてやる」との約束のもと、皇子誕生の祈祷をしつづけ、承保元(一〇七四)年、皇子敦文親王の誕生をみた。頼豪は褒美として三井寺の戒壇建立の願いを申し出たが、またも延暦寺の横槍がはいり、この約束は反故にされる。

明治16年の版本、挿画は浮世絵師の月岡芳年が描いた/京都御所の建礼門

三井寺の『伝法潅頂血脈譜』に記載された頼豪阿闍梨 月岡芳年の描いた頼豪阿闍梨 このことを怨んだ頼豪は、自分の祈祷で誕生した敦文親王を、今度は祈祷で魔道に落とそうと断食に入った。やがて百日後、頼豪は悪鬼のような姿に成り果て憤死する。『太平記』にはその様子を、「……百日の間、髪をも剃らず、爪をも切らず、祈祷の壇から出る煙の煤(すす)で真っ黒になり、怒りと恨みの炎に骨を焦がしてこのまま大魔縁となり、白河天皇を悩ませ、比叡山延暦寺の仏法を滅ぼしてやる」と、迫力満点の記述で残されている。

 その頃から敦文親王の枕元に、妖しい白髪の老僧が現れるようになった。白河天皇は頼豪の呪詛を恐れて祈祷にすがったが効果はなく、敦文親王はわずか四歳でこの世を去った。

 そして頼豪は石の体と鉄の牙をもつ大きな鼠に化生。この鼠のことを頼豪鼠、または鉄鼠と呼ばれようになった。

 鉄鼠と化した頼豪は生前の恨みを晴らすため、八万四千匹もの鼠の大群を率いて比叡山を駆けのぼり、延暦寺の仏像や経典を食い破った。頼豪の怨念の恐れをなした延暦寺は、日吉大社の東本宮前に『鼠の秀倉(ほくら)』という社を築いてその怨念を鎮めた。

 また、三井寺境内、観音堂へ上がる石段の右手に十八明神がある。一般的に『ねずみの宮』と呼ばれ、延暦寺に押しかけた鼠の霊を祀っているため、北の比叡山延暦寺の方向を向いて建っている。

現在も日吉大社東本宮近くには鼠社がまつられている


頼豪阿闍梨恠鼠伝を読む

三井寺南院の「ねずみの宮」  馬琴は文化五(一八〇八)年、そんな頼豪の様々な逸話をもとに、読本八巻九冊にまとめた『頼豪阿闍梨恠鼠伝』を出版する。出版元は鶴屋喜右衛門、初版本は葛飾北斎が挿画を描いている。

 木曽義仲が従兄弟、源頼朝に討たれた事件を『源平盛衰記』や『吾妻鏡』、『太平記』などを元にして書かれた仇討ち物語で、馬琴一流の脚色がなされた波乱万丈、一大スペクタクルである。

 木曽義仲の遺児、美妙水冠者(しみづのかんじゃ)・義高は源頼朝への復讐のため、修行者の姿に身をやつして諸国遍歴をしていた。途中、近江国粟津にある父の墳墓に詣でる。雨宿りに入った庵でうたた寝をする。そして、不思議な夢を見る。夢の中で走るネズミを追いかけ、そのネズミが岩の下にもぐっていくと、大きな石が砕け、中から老僧が現れる。これは頼豪阿闍梨の神霊であった。

木曽義仲の墓(義仲寺)と近江八景「粟津の晴嵐」(明治期)

 頼豪は白河帝に対する恨みを述べ、かつて義仲が、頼豪の祠に征夷大将軍となるために願書を寄進した話を語り、その縁から義高を助力する旨を述べ、鼠を使役する術を与える。

 雄牛ほどの鼠が現れ義高を救う場面や、鼠の顔を持つ怪人を呼び出す場面など奇想天外の場面が展開する。

芭蕉翁の墓所で知られる義仲寺(大津市馬場)/頼豪の説話は絵はがきにもなった

 頼豪阿闍梨恠鼠伝、巻一には「……そもそも木曽義仲と聞えしは、清和天皇の後胤、六條判官為義には孫、帯刀先生義賢のみなしごにて、頼朝とは正しき従弟どちなりけり。然るに兵衛佐頼朝は思量餘りあって嫌忌ふかく、一族たりともすぐれたる人をば、終にわが仇となりもやせんとて、妬く思ひたまふなれば、今義仲の武威盛んなるをもて、心の中のどやかならず」

 木曽義仲は「……数度の合戦に平家の大軍を打ちなびかし、砥波玖梨伽羅谷(となみくりからだに)に十萬騎をみなごろしにせしより、その威勢破竹の如く……」と平教盛率いる平家軍を破った。いわゆる治承の乱である。その戦いに勝利し都に凱旋する前、日枝に陣を構える。

 義仲、日吉八箇の末社の内にある小さな祠を見つけ、これは如何なる神を祀るのかと問えば「……覚明答へて三井の長吏、実相房の頼豪が神になりたるにて候。こは鼠の秀倉といふならん……むかし白河院の御時に、三井寺の頼豪阿闍梨とて、有験の権者ありき。この時后腹の皇子わたらせ給はざりしかば、主上(みかど)心もとなく思召すのあまり、かの頼豪をめして『汝皇子を祈り出してんや。もし効権あらば勤賞は乞ふによるべし』と仰せ含められし……」とある。さきに述べたように、頼豪が鉄鼠と呼ばれる由来が記されている。

 妖怪と化した鼠の霊力を武器に、艱難辛苦を乗り越えて仇討ちを成就する。馬琴は『平家物語』など、ありとあらゆる古典からの知識を基に、江戸の庶民に勧善懲悪・因果応報を興味深く、そして分かり易く説いたエンターティナーであった。出版後、すぐに歌舞伎『軍法富士見西行』という演目で上演、また山東京伝が『稲妻形怪鼠標子』などを出版し、江戸庶民から喝采を受ける。

 この夏、妖怪伝説の世界で、ひととき涼を感じるのも一興か。

頼豪説話をモチーフにした作品は歌舞伎や歌川国芳が挿画を描いた山東京伝の『稲妻形怪鼠標子』など数多く、現代の人気作家・京極夏彦さんも『鉄鼠の檻』を書いている







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