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明治の求法僧 慧海(十二) 慧海は外務省から発給された旅券を
大蔵大臣に示し、自分が日本人である
ことを説明しました。日本人である自
分と懇意にしていたことが判れば、大
臣にも迷惑がかかると気遣う慧海でし
たが、大臣はそんなことは気にせず、
一刻も早くインドへ向けて脱出したほ
うがいいと言ってくれました。
時あたかも第二の法王パンチェン・ ラマがシガツェからラサに来ていて、 街は大変な賑わいでした。この機に乗 じれば、人目につかないで脱出できる だろうとも助言してくれたのです。 そうと決まれば蒐集した経典や法具、 書籍の荷造りをしなければなりません。 慧海はセラ寺の僧院と大臣宅の自分の 部屋に保管していたそれらの資料を徹 夜の作業で荷造りしています。そして、 勉学にいそしんだセラ寺本堂の釈迦尊 像にお別れの願文を読み上げ、釈尊の 法号を十唱十礼してセラ寺を後にして います。 荷物を運ばせる馬とインドまで供を してくれる下僕の手配は薬屋・天和堂 の主人がかって出てくれました。 すべての準備が整い、ラサを出発す ることにしたのが五月二十九日です。 もちろんお世話になった大臣にもお別 れの挨拶に行っています。身分が露見 してから二週間が経っていました。ラ サに潜入してから15ヶ月、435日に渡 る滞在でした。いよいよラサを出ると いう時、家族同然の付き合いをしてき た天和堂の人達との別れはことのほか 辛いものがあったようで、特に11歳の 娘と5歳の息子は慧海との別れが悲し くて、お別れの挨拶も出来ないほど泣 きじゃくったそうです。 ラサを出て三日目、六月一日にはゲ ンバラという所で、ラサのマルポリの 丘にそびえ建つダライ・ラマ法王の宮 殿、ポタラ宮を遠望して「願わくば、 再びこの地に来たり、日本仏教とチベ ット仏教との協同和合に一臂の力を尽 くし、さいわいに世界仏教の基礎とな ることを得ば、まことに愉快なことで ある。別れに望んで、ひとえにこのこ とを願うという意味で、般若心経三巻 を読んだのだった」と記しています。 一週間後にはチベットでラサ、シガ ツェに次ぐ第三の都市、ギャンツェに 到着しています。その日はお寺に一泊 し、翌朝早く出立してインドとの国境 を目指します。いつ追っ手が来るやも しれない身ですから、往路のようにの んびりとした旅は許されません。とに かく先を急がなければならないのです。 チベットに潜入するときは密入国です から、国境の関所をさけ、危険な間道 を選んだのですが、脱出の今は最短ル ートである公道を選択するしかありま せん。(梅村敏明) << 明治の求法僧 慧海(十一) | 明治の求法僧 慧海(十三) >>
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