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明治の求法僧 慧海(十三)

「脱兎の如く」インド国境を目指す慧海です。しかし、公道ですから当然関所があります。しかも五ヶ所。とにかくこの五つの関門を素早く無事に通過しなければ、インドに逃れることが出来ません。それは容易なことではなかったらしく、第一の関所の許可書を第二の関所に提示して、そこでまた審査を受けて、第二の関所で得た許可書を持ってまた第三の関所に向かうということの繰り返しだったそうです。鎖国状態にあった当時のチベットの国境警備に関する事情を伺わせます。

一刻も早く許可書を得るためには、相応の賄賂も必要だったとも言っています。

慧海はチベット出国の理由を「ダライ・ラマ法王内殿からの特別の用件でインドのカルカッタに行き、薬を調達しなければならない」としています。

なにせ慧海はチベット滞在中には僧侶としてよりも、法王の侍従医に推薦されるくらい医者としての名声を得ていたものですから、関所の役人もそんな噂は耳にしていたのでしょう。

通常、チベットの商人がこれらの関所を通過するのに二週間くらいかかるところを、慧海はわずか三日で通過しています。そのことについては「全くわが信仰する本師、シャカムニ世尊の守護くださった徳によることであると、実に仏の冥加の恐ろしいほどありがたいのに感涙を催し、その夜はとくにお経を読み、夜中一睡もせずテントの中で夜を明かしたのであった」と、無事五つの関所を通過出来た感慨を述べています。そしてその日のうちに英国領インドに入り、チベット脱出を果たしています。明治三十五年(1902)六月十五日のことです。

七月一日、待ちに待った荷物(蒐集した経典・法具など)をダージリンの隣町のカリンポンで受け取り、三日にダージリンに入っています。早速、恩師であるサラット・チャンドラー・ダース氏(慧海にチベット語を教えてくれた人物)を表敬訪問しています。

緊張の連続だったチベット脱出の疲れが出たのか、翌日から熱病に冒され、一時は死をも覚悟し、遺書まで口実筆記してもらうような状態でした。一ヶ月の療養の末、ようやく完治し、それからさらに三ヶ月静養して、十一月下旬にカルカッタに向かいました。翌年二月にネパールのカトマンズで、ネパール国王とサンスクリット経典の蒐集と漢訳大蔵経の交換を約束し、国王からサンスクリット経典を下賜され、四月二十四日、ボンベイを出港し、明治三十六年五月二十日、無事神戸港に着き、帰国を果しました。六年に渡る求法の旅でした。〔了〕(梅村敏明)


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