平安時代に三十三所観音霊場を巡ったことが歴史資料の上で確認できる僧に園城寺の行尊(1055〜1135)と覚忠(1118〜1177)がいます。共に園城寺長吏、天台座主を勤めた高僧です。お寺は現在の三十三所寺院と変わるところはありませんが、行尊は長谷寺を一番(現在は八番)とし、三井寺は二十一番(十四番)、そして結願の三十三番を三室戸寺(十番)としています。また、覚忠は青岸渡寺を一番(現在も一番)とし、三井寺は二十二番、結願をやはり三室戸寺としています。
現行の青岸渡寺を一番として華厳寺が結願の三十三番となったのは、室町時代の15世紀になってからのことです。それまでは三十三所観音霊場巡拝は僧侶の修行として行われていたものを、室町中期以降は僧侶ばかりではなく、貴族や庶民も巡拝するようになりました。江戸時代に入るとますます盛んとなり、特に東国からの巡礼者が多くなりました。西の国にある観音霊場ということで「西国霊場」と呼ばれるようにもなったのです。つまり、東国からの巡礼者が巡拝しやすいように順番が組み替えられたものと考えられています。
和歌山から大阪、奈良の霊場を巡拝して京都に入り、滋賀から再び京都、大阪そして兵庫を巡りもう一度京都に入って、滋賀の三十二番観音正寺から岐阜の華厳寺に至ります。実に二府五県にまたがる、千キロにも及ぶ巡礼です。さらに巡礼者の居住地から青岸渡寺に至る道程、結願の華厳寺から居住地の東国に戻る道程を加えるとなれば、どれほどの距離になるのでしょうか。
現在でも徒歩による巡礼者がおられないわけではありませんが、公共交通機関や道路が整備されていますので、電車や乗用車を利用しての個人巡礼や、旅行社が企画した巡礼パックに参加しての西国巡礼がほとんどです。
往古には御師(おし)と呼ばれる人があって、巡礼者にお寺の由緒を語り、巡拝の功徳や作法、宿泊の手配なども行っていたそうです。今日そういったお世話をされているのが先達(せんだつ)さんです。巡礼の団体さんを引率し、勤行の導師を勤め、寺院の歴史・由緒、そしてご本尊の功徳を簡潔に説明されています。
先達さんになるためには、ともかく西国三十三所を一巡しなければなりません。札所寺院から満願の確認を得て、西国三十三所札所会に「先達申請書」を提出し、承認されて晴れて先達さんということになります。先達さんには袈裟や軸装の納経帳が授与されます。その納経帳を持ってさらに二巡すると中先達に、中先達としてさらに三巡すると大先達となります。
(梅村敏明)