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近江蕪村、紀梅亭…大津で華ひらいた庶民画家。


大津に住んで二十余年、梅亭は借家住まいを楽しんだ

近江蕪村と呼ばれた紀梅亭(きばいてい:楳亭)は享保十九年(一七三四)、山城国鳥羽に生まれた。 しかし、その出生の詳しいことはわからない。

江戸時代後期は上方文化が花咲き、多くの芸術家を輩出した。 井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして与謝蕪村……。 力を持った庶民、特に商人たちは、その芸術家達を物心とも競って援助した。 梅亭は蕪村一門の高弟で、南画家として京都で活躍していた。

蕪村の名で描いたとも云われ、師の作として出しても通用するほどの腕前だったという。


梅亭、七十一歳の作「月夜竹林図」。(琵琶湖文化館蔵)

その梅亭がなぜ、大津に居を構えたのかはっきりしない。天明の大火(1788)で京都が壊滅的な打撃を負い、 難を逃れ、蕪村門下の一人で大津市長等一丁目にある長寿寺住職、 龍駕(りょうが:覚什)を頼って大津へ移り住んだと云われている。 そこで、現在の住職楠芳文先生を訪ねる。先生は同寺が経営している寿幼稚園の園長としても長年活躍されてきた。 大切に保存されている御寺の過去帳などを前に、お話を伺う。

長寿寺に保存されている過去帳。五行目に梅亭の記事がある。

龍駕は延享元年(一七四四)生まれ。長寿寺住職のかたわら、蕪村に画と俳諧を学び、梅亭と親交を深める。 その線で鍵屋町(現長等三丁目)の中村五兵衛の借家に住むことになる。 梅亭五十三歳、すでに老齢の域に達しようとしていた。

今にも梅亭が歩いていそうな路地が残る。鍵屋町(長等三丁目)付近。


梅亭の借家のあったところに「畫家紀九老僑居之阯」という標石が立っている。 そこには梅亭の住んでいた家が二十年ほど前まで建っていたという。

梅亭が住んでいた借家跡(光徳寺前)。

町人文化華やかな大津 好々爺、梅亭の意欲は冴える

大津は湖上交通で運ばれる物資の集積地、東海道の宿場町、また三井寺の門前町として栄えていた。 ものの本によると、その賑わいは江戸の日本橋に匹敵するほどだったという。 様々な商いを営む豪商達が文雅をたしなみ、多くの文人墨客が往来し、町は活気を呈していた。

蕪村の門下であった梅亭は南画家として山水画に秀でた才を発揮し、その作品も市中に多く残っている。 しかし大津で描いた美人画や大津絵などは、ふくよかでおおらかな線で描かれており、 梅亭の気さくで闊達な性格が表れている。

その余りある才能は、依頼者の好みによって画風を変え、俳画や動物画なども気軽に描くというものだった。 大津に移り住んだ梅亭は「湖南九老(こなんきゆう)」と落款することが多くなった。湖南とは、琵琶湖の南をさす。 梅亭の師、蕪村が敬愛してやまなかった芭蕉の影響と、大津で活躍していた芭蕉の高弟、千那や尚白の影響もあったと思われる。

また、九老とは、中国の有名な詩人白楽天が晩年詠んだ詩「九老図詩」による。 白楽天は李白、杜甫と並ぶ有名な詩人で、九老とは、白楽天と交遊のあった高官や詩人九人をいう。 いずれも七十歳を越え、悠々自適の生活を送りながらも、なお各々その道で活躍していたものである。

梅亭は「湖南九老」と落款することで、この大津を終の住みかにと思ったに違いない。 九賢人のように悠々自適の生活が送れ、いつまでも元気で好きな画を描く。 そして、世間の人々に喜ばれる……。そんな生活を実践していたに違いない。

大津に現存する梅亭の作品の数は、京都に残るものよりもはるかに多いという。

蕪村直系の弟子であることが記されている「書画必携名家全書」。


二曲一隻屏風「大津絵図」。藤娘と鬼が向かい合っている構図が面白い。(琵琶湖文化館蔵)


奉納された絵馬にも梅亭の色使いと独創性が生きる

三井寺には二枚、梅亭の描いた絵馬が西国十四番札所観音堂に納められている。 一枚は三国志で有名な諸葛孔明の武勇伝「孔明奇策図」で、大胆な構図と繊細な筆運で描かれている。 もう一枚も中国の故事を題材にした作品「予譲(よじょう)裂衣図」である。 敵討ちというあまり絵馬には描かれないモチーフと、迫力ある色彩は圧巻である。

梅亭は鍵屋町の自宅を出て遊里、柴屋町を抜け三井寺に上る。天気の良い日の日課であった。 春は桜、夏は鰻を食し、紅葉を眺める。

同好の志、龍駕らと語らい、想を練り広い三井寺の境内を歩く。 仁王門、金堂、三重塔、唐院、勧学院…樹木と静寂に包まれた山内を歩く。 観音堂に続く長い石段を登りきると一面視界が広がる。 大津の町並みが一望できる高台で、しばし休息する。

遠くに米や野菜を積み込んだ帆掛け船が行き交う。櫓を漕ぎ、網を打つ漁師。 荷揚げする人夫たち、荷車に引かれた牛馬のいななき…。 その喧噪の向こう、膳所あたりには葦原が広がっている。 師蕪村が敬愛してやまなかった俳聖芭蕉翁が結んだ無名庵がかすんで見える。

梅亭が好んで眺め、描いた風景。古希を過ぎても精力的に作画をしていた梅亭は、 文化七年七月七日七十七歳、偶然とはいえ、七が五つも並ぶ日に生涯を閉じた。

幸せな人生だったに違いない。


「孔明奇策図」。曹操軍を奇策で打ち破り、悠々と酒を酌み交わす孔明と魯粛。(現在は大津市歴史博物館寄託)。


衣を突き刺す瞬間を描いた「予譲裂衣図」。迫力ある構図と、鮮やかな色使いが新鮮。


旧遊郭の面影が残っている柴屋町付近。


膳所、義仲寺境内芭蕉翁の墓。

二百年の時を経て…
今も梅亭の意思は受け継がれている。


毎年春先、成安造形大学の卒業制作展が三井寺境内で開催されている。 境内や庭園、伽藍内部などを使った作品群は、自由な発想で高い評価を得ている。






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