当寺初代の梵鐘で、奈良時代の作とされています。
むかし、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に
琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えられています。
その後、山門との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると
”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、
弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。
鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。
また、この鐘は寺に変事があるときには、その前兆として不可思議な現象が生じたといいます。
良くないことがあるときには鐘が汗をかき、撞いても鳴らず、
また良いことがあるときには自然に鳴るといいわれています。
「園城寺古記」という戦国時代の記録には、文禄元年(1592)七月に鐘が鳴らなくなり
寺に何か悪いことが起るのではないかと恐れた僧侶たちは、
様々な祈祷をおこなったところ八月になってようやく音が出るようになりました。
また建武の争乱時には、略奪を恐れ鐘を地中にうめたところ、自ら鳴り響き、
これによって足利尊氏軍が勝利を得たといわれるなど、
まさに霊鐘というにふさわしい様々な不思議な事件をいまに伝えています。
現在は撞かれることもなく金堂西方の霊鐘堂に奉安されています。
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