浅村朋伸の「世界一周自転車旅行記」 三井寺ホームへ

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タイ入国 VOL.3

 国境を越えて入ったサダオという小さな町は、今まで走ってきたマレーシアとは打って変わり、賑やかな音楽が鳴り響いていた。通りには若い女の子が派手なファッションで歩き、レストランやバーの看板が溢れている。僕は、まず持っていた日本円をタイバーツに両替し、ホテルにチェックインして荷物と自転車を部屋に運び込んで、早速、町を歩いてみることにした。

 自転車旅行では大抵、宿泊する町に到着するのは夕方で、その町に何らかの用事でもない限り、翌朝には出発するので、滞在期間は夜だけとなる。だから、その町や村を観光するとすれば夕方や夜中に出歩くしかないのだ。一日中、自転車をこいで疲れているとはいえ、シャワーを浴びた後で、到着した町を、歩いてみるのは一日の大きな楽しみの一つである。何か、珍しいものはないか、うまそうなレストランはないかとブラブラとその町の臭いを確かめるのである。

 こんな楽しそうな町を歩かない手はない。サダオに入って、すぐにそう思った。通りは舗装されておらず、狭かったが、そのせいで町の中が余計に賑やかに見えた。

 あちこちにディスコという看板が揚がっている。日本では、見なくなったディスコだが、タイでは、どんな様子だろうと思って、中に入ってみると、タイのダンスミュージックがガンガンにかかっている。若くてスタイルのいい女の子が注文を取りに来たのでビールを注文し、あたりを見回してみると、踊っているのは、なぜか中年の親父と若い女の子ばかりである。女の子はスタイルも良くてダンスも上手いが中年の親父は踊り方も滅茶苦茶だった。

 ビールを2杯飲んだ後、外へ出て、通りをうろうろしていると、椅子に腰掛けたギョロ目の男が大声でビールを飲め、飲めと言ってフタの開いたビール缶を差し出してき

た。これが噂に聞く睡眠薬強盗に違いない。僕は心の中で確信した(一体どれほどの効き目があるんだろうか)。男の隣に腰掛けて、出されたビールを、ほんのわずかな量、口に含んでみた。ガクンッと平衡感覚が失われた。自分が前のめりに椅子から倒れ落ちたような錯覚がした。「これは、ヤバイ、普通に一口飲んでいれば本当に倒れたかもしれない」と驚いた。

 一体なぜ、それだけの量で、それ程の効き目があるのか分らなかった。僕は、その場から立ち去ろうとしたが平衡感覚が失われているので、このまますぐに立ち上がっては倒れるかもしれないと思い、感覚が回復するまで平然を装って、しばらく椅子に腰掛けていることにした。男は、しきりに、もっと飲め、もっと飲めと身振りを交えて必死に勧めてくる。僕は「誰が飲むか」と心の中で呟いた。ようやく、感覚が戻ると、立ち上がって、さっき入ったのとは別のディスコに入った。ここでもビールを飲んだ。

 この町はとにかく賑やかだ。今まで、静かなマレーシアを黙々と旅してきたせいか、よけいにそう感じるのかもしれない。

 そろそろ、部屋に戻ろうと思い、ディスコを出て歩いていると二人組の女の子と目が合った。彼女達は、すれ違いざまに、笑顔で「一緒に食事をしない?」と聞いてきた。手には、ビニール袋に入った御飯を持っている。おそらくそれが晩御飯なのだろう。夜店の金魚すくいの入れ物みたいに見えて、あまり食欲をそそるものではない。ついて行ってみると、狭い部屋が並んだ寮の様な建物に到着した。その建物の一室に彼女達は二人で相部屋をしているという。靴棚も洋服かけも二人分ある。一人は英語を少し理解できるようだったがもう一人はさっぱりだった。いろんな話をしながら食事をとり、しばらくすると彼女達は、もう寝ましょう、と言って電気を消した。ここで寝ればいいということなのだろうが、貴重品入れにはパスポートや現金が入っている。彼女達の何らかの手口であるという証拠はなかったが、つまらないことに巻き込まれる気がしたので、ホテルに戻った。

 部屋に戻ると、この町に着いて、たった数時間で、いろんなことがあったような気がした。「ここは、マレーシアとは違う。気を引き締めていないとエライ目にあうかも知れないな」。僕は自分に言い聞かせた。

 雨の中、サダオを出発すると、しばらくの間は、道の両側に林が続いていた。道路の脇に立つ、行き先表示も、タイ語で表記されていて、全く理解できないので、どこをどう走っていけばいいのかわからない。わかっているのは、とにかく北を目指せばいいということだけだ。地図を買わなければいけないと思って、何度も、小さな商店やガソリンスタンドに寄ってみたが、なかなか地図を置いている店は見つからない。雨のせいで、距離も伸びないし、道がわからないので、前進する意欲もあまり湧かない。

 数日で、ハジャイという町に到着した。タイに入って初めての大きな町だった。いたるところで漢字が溢れている。中国人が沢山いるのだろう。字が読めるというだけでホッとした。大きなデパートに入ると本屋さんがあったので、タイ語の辞書と地図を買おうと思ってウロウロしていると日本語を話す女性達がいた。現地に住んでいる日本人なのか、旅行中なのかわからない。とにかくハジャイは中国人や日本人がいるくらい、そこそこの規模だということなのだろう。面白そうな町だが、滞在するのはやめた。雨で移動が遅れているのでゆっくりする気にはならない。

 とにかく、早く先へ進みたい。一刻も早く、バンコックに到着してしまいたい。僕は何かしら焦りのようなものを感じていた。

 北へ走り続け、小さな町のホテルにチェックインした。市場で売られている魚や野菜などいろいろなモノを眺めながら歩いた。走っている時は鬱陶しい雨も、町の中ではさほど気にならない。レストランに入り、ムエタイの放送を見ながら焼きそばとチャーハンを食べ、部屋へ戻る。そして、地図を開いて今後の予定をしばらく考えた後、椅子に座ってビールを飲みながら、ビートルズのカセットテープを聞いた。

 遅れているとはいえ、何とか前に進んではいるのだから、と自分に言い聞かせて納得しようとしたが、この雨では明日になっても洗濯物は乾かないだろう、と思うと気分がさえなかった。

 タイに入国してから、ずっと雨が続いている。それもスコールではなく梅雨のような天気だ。雨の中を走るのは疲れるから、距離も伸びないので予定が狂ってしまう。どうにかならないものだろうか、とついつい考えてしまう。北上するにつれて天気のいい日にも恵まれはじめたが、さすがに熱帯だけあってスコールが降った。タイのバス停は屋根がしっかりしており、雨宿りをするにはもってこいなので、スコールが来ると、自転車の人間も、バイクに乗った人間も、一時的に避難する。

 雨宿りの間、買っておいた御菓子を食べながら、地図を開いて行き先の確認をする。スコールはすぐにやむので、いい休憩にもなるし、気分転換にもなる。それほど悪いものではない。

 タイの田舎では水田が広がり、あちこちで牛が歩いている。

日本の田舎と異なるのは、椰子の木が並んでいることである。見ているだけでリゾート地にいる気がする。僕はただ、走っているだけでは勿体無い気がしてきて、近くのビーチに寄ってみた。砂浜で椰子の木を見ていると、「ああ、ここは南の国なんだ」という実感が湧いてくる。

 自分は今、日本にいるのではない。少し、道をそれて砂浜へ出たという、ただそれだけのことでだけで、新鮮な気分になる。

「先へ、先へ進むことも大切だけど、やっぱりこういう時間も積極的に取り入れていったほうがいいな」あまり冷えてないコーラを飲みながらそう思った。

 国境からバンコックまでの中腹に位置するラマエという小さな町に到着した。ホテルを探しながらキョロキョロしてみたが見当たらない。通りで女の子にホテルの場所を訊ねると女の子は紙に地図を書いてくれた。その地図を頼りにホテルを探したが、やっぱりホテルは見つからない。諦めようかと思っていると、さっき道を訊ねた女の子がスクーターで現れた。

「迷ってるんじゃないかと思って、探しに来たの。」

なんと、親切なのだろうか。女の子の後に着いて行くと、確かにホテルに到着したが、そこにはタイ語でしか表示されていない。どうりで幾ら探しても無駄だったわけだ。

 無事にチェックインを済ませ、シャワーを浴びて、荷物をぶちまけていると、誰かがドアをノックした。ドアをあけると道を教えてくれた女の子だった。

「お腹が空いてるでしょ?」

女の子はビニル袋に入ったチャーハンとスープを持っていた。道を聞いただけなのに御飯まで用意してくれるとは流石に驚いた。

「よかったら、私の家で食べない?」

誘われて着いて行くと女の子の家はホテルのすぐ前にあった。中に入ると、床がピカピカの石で敷き詰められている。奥から、女の子のお母さんが出てきて、果物を皿に盛ってくれた。随分、豪華な家に住んでいるんだな、日本でこんな家に住める人間なんて中々いないだろう、などと考えながら御飯を食べ終わると、女の子は外に出かけようと言って、僕を連れ出した。ノコノコ着いて行くと、大きな集会所のようなところに連れてこられた。

 なかでは沢山のテーブルが並んでおり、それぞれのテーブルにはご馳走が盛ってあり、大勢の人間が食事をしている。そのうちの一つのテーブルに座ると、女の子はそこに座っていた女性を僕に紹介した。どうやら、女の子のお姉さんらしい。

彼女の姉は「この町のメイヤーをしている」と言った。はて、メイヤーというのは何という意味だったかな、と考えたが思い出せないので気にせずにいた。

 お姉さんは、研修で日本へ行ったことがあると言い、大阪にも行ったことがあるらしかった。随分、日本を気に入ったらしく、妹も日本へ行きたがっていた。おそらく、いろいろな話を姉から聞いたのかも知れない。彼女達は「いつまで、ラマエに滞在する気でいるの」と訊いてきた。もとから滞在する気など無く素通りの予定だったので「明日出発する」と言うと「それではいけない、是非、もう一日、滞在しなさい」というので、もう一日だけ滞在するというと、お姉さんの車で近くを案内してもらうという約束になった。礼を言って、部屋に戻り辞書を開くと「メイヤー」は「市長」という意味であることがわかった。

あんな若い女性が市長になるなんて、タイという国は随分女性が社会に進出しているんだな、とビックリし、彼女達が立派な家にすんでいるのも納得した。

 朝になると、約束通り、女の子が迎えにきた。お姉さんも車でやって来ている。

車はピカピカのトヨタのハイラックスだったので、少し驚いた。女性でこんな車に乗っているなんて、タイでは珍しいはずだ。車に乗り込むと、彼女達は海と町のどちらに行きたいかと訊ねてきた。「海がいい」と答えると近くの海へ案内してくれることになった。

 「旅行していてタイはどう?」とお姉さんが聞くので、「椰子の木がいっぱいあって、リゾート気分です」と答えると「なぜ椰子の木がリゾート気分なの」と聞かれ、説明するのに苦労した。

 海へ着くとビーチにあるレストランでお姉さんは、何か食べようと言った。何が食べたいか、と聞かれたがタイ料理のメニューはトムヤンクンしか名前を聞いたことが無かったのでそれを注文すると、お姉さんはカニを注文した。出て来たカニは、さすがタイ料理だけあって出てきたカニは強烈にスパイシーだった。

「こんな辛いものを食べてタイ人は平気なのですか?」と聞くと、彼女達は「もう小さい頃から食べてるんだもの、皆、辛いものが好きなのよ」と笑いながら答えた。

 カニなどを食べ終わるとデザートに山盛りの果物が出てきた。僕は以前からの疑問を彼女達にぶつけてみた。「タイの果物は甘いけど、タイ人は甘いものと辛いものとどっちが好きなんだろう?」彼女達は「決まってるじゃない。どっちもよ」とあっさり答えた。

 僕は彼女にタイの国王のことを聞いてみた。タイでは国王は大変愛されており、尊敬されているという。彼女達は夕方まで、タイの歴史やバンコックのことについていろいろなことを話してくれた後、宿まで送ってくれた。

 部屋に戻った僕は、もっとタイの歴史を知ろうと思い、ガイドブックの説明を読んでみた。彼女達に会ったおかげで、国境の町で騙されかけたり雨で苦労してきたイメージしかなかったタイに興味が湧き始めた。

 やっぱり旅行していると、いろんな人間に出会うものだ。笑顔で近づいてくる相手がどういう人間なのか、瞬時に見極めないといけない。出会う人、全てを信用しないわけにはいかないし、全てを信じるわけにもいかない。いったい、これから行く先々で、どういう人間に出会うのだろうか。僕は、タイで、出会いが旅を左右することを改めて実感した。