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デリーから国境へ |
VOL.14 |
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グランド・トランクロードをひた走り、ついに僕はインドの首都デリーに到着した。
ニューデリーの駅前から続くメインバザールには、雑貨屋、ホテル、靴屋、本屋などが、ごったがえしていた。おびただしいインド人の買い物客がいて、なかなか前に進めない。パハ−ル・ガンジと呼ばれるこのストリートも、バックパッカーの間では安宿街として有名であったが、バンコックのカオサンやカトマンズのタメル地区と違って、地元の人間を対象に商売している店が多かった。メインバザールの中腹にあるナブランというホテルにチェックインすると、そこには、日本人のバックパッカーが数名いた。僕はホテルに自転車と荷物を運び込み、シャワーを浴びた後、ベッドに寝転びながら、このデリーでやらなければならないことをもう一度整理した。
自転車の工具を郵送してもらうように日本の友人に頼むこと、そして、パキスタンビザの取得、インドルピーからUSドルへの両替、イラン地図の入手。考えてみれば、いろいろとあったが、まずは自転車の工具を送ってもらうように頼むことが最優先だった。僕の自転車はスポークが折れていて、修理が必要なのだが、工具などを持ってきていなかったのである。
早速、それから手をつけることにした。パハール・ガンジはさすがバックパッカー街だけあってインターネット屋は簡単に見つかった。デリーではインターネットの使用料がバカ安いと聞いていたが、噂は本当だった。とりあえず、友人にメールで、必要なものを知らせ、後は荷物の到着を待つことにした。
日本の友人から、デリーの郵便局に手紙を送ったというメールが入っていたので、自転車に乗ってニューデリーのGPO(ジェネラル・ポスト・オフィス)に行ってみたが、手紙は届いていなかった。もしかしたらオールドデリーのGPOに届いているのかもしれないと思って、オールドデリーへ行ってみることにした。
オールドデリーへ向かう道に入ると、自転車が全く進まなくなった。道路が車と動物で溢れかえっている。ギュウギュウに渋滞して隙間も無い。それぞれがクラクションを鳴らしたり、大声を出しているので、やかましい。すぐ隣で、バカでかい牛が荷車を牽いている。譲り合うといった精神がないのか、我先に少しでも隙間があれば突っ込もうとするせいで、ますます身動きがとれず収集が付かなくなっている。先進国の渋滞なんかとは迫力が違う。普通なら自転車という乗り物に、渋滞は関係ないというのが常識で、これが自転車の強味の一つであるのだが、このオールドデリーで自転車に乗ると、そんな常識は全く通用しない。ひたすら行列の一部となって自分の前が進むのを待ち続けるしかなかった。もう絶対に自転車でオールドデリーには来ない、何度もそう思った。
結局、オールドデリーのGPOにも日本からの手紙は届いていなかった。手紙も確実に届かないところに、荷物が到着するのだろうか、と不安になった。オールドデリーの郵便局を出て、ホテルを目指すとラールキラーの前に出た。アーグラー城と同じく巨大な城壁に囲まれたこの城は、タージマハールを建設したシャー=ジャハーン帝の建てた城である。彼は建築マニアだったのだろうか、などと考えながら城を眺めた。何しろ、タージマハ―ルの建設費用は約20兆円といわれているし、彼自身の墓も建設予定だったのだから、巨大なものを建てるのが好きだったのだろう。
目的の一つであるUSドルの確保をしようとしてシティバンクへ行き、インドルピーからUSドルへの両替を頼むと断られた。これには参った。一体、どうすればUSドルを手に入れられるのだろうか。ホテルにいた旅行者達に聞いてみると、パキスタンのビザは日本人には不要になった、という情報が確実なものだと判明したが、希望者にはビザを発行してもらえるというので、念のためにビザを発行してもらうことした。自転車旅行では、小さな町に滞在することも多い。日本人にはビザが必要なくなったという情報が、小さな町の警察に行き届いているとは思えない。ビザを見せろといわれたときに面倒なことになるのは目に見えている。各国大使館の並ぶチャナキャプリ地区に行き、日本人大使館でパキスタン大使館に提出するレターを入手して、パキスタン大使館で、ビザの申請を済ませた。
僕はイランの地図を入手するために、町の中心に位置するコンノートプレイスと呼ばれる高級なショッピング街で本屋を探した。何でも揃ってそうな本屋を発見したので、入ってみると、案の定、イランの地図は簡単に見つかったが、広げてみると何の役にも立ちそうにないイタズラ書きしたような地図だった。町も道路もハッキリと記載されておらず、こんなもの買っても仕方ない、とは思ったものの値段が異常に安かったので買っておくことにした。
ある日、日本人旅行者達に人気のゴールデンカフェというレストランで、ビールを飲みながらチキンライスを食べていると、同じホテルに宿泊中の旅行者とタンドリーチキンのことが話題になった。タンドリーチキンは日本でも有名なインド料理の定番だが、ここデリーには、タンドリーチキン発祥のレストランがあるというのだ。そのレストランは「モティ・マハル」という名で、オールドデリーにあるらしく、我々はタクシーに乗って、そこへ行ってみることにした。
店の中は誰も客がいなかった。店の中で食べるか、外の庭で食べるか選べるようになっていたが、我々は庭で食べることにした。実際に出された本家のタンドリーチキンは、そんなに美味いものとも思わなかった。庭では、蚊がブンブン飛んでいて、中で食べればよかったと後悔した。
「ところで、インドルピーをドルに両替したいんだけど、銀行ではできないと言われたんだ。どこかで両替できないかな」僕は彼に訊ねた。
「ゴールデンカフェに行けばいいじゃないか。あそこなら両替してくれるはずだよ」
チキンライスを食べるために何度も行っているゴールデンカフェで、両替ができるとは気付かなかった。
そういえば、両替についての説明書きが壁に貼ってあったような気がした。
「へえ、ゴールデンカフェは両替もやっているのか」
「両替する時は、いつもあそこに行くんだよ」と彼は言った。
翌日、僕はインドルピーをゴールデンカフェに持って行き、USドルに両替した。メールを打ってから10日目に日本からの荷物は届いた。ホテルのフロントに小さな郵便局からの電話があり、そこに荷物を取りにきてくれというものだった。身元証明のパスポートを持って、自転車で指定された郵便局へ向かった。荷物は郵便局の棚に置かれていた。自分の名前が箱にある。早速、荷物を受け取り、郵便局を出ると、その場で箱を開いた。中には自転車の工具とインスタントラーメンや駄菓子などが入っていた。郵便局の前で、駄菓子をいくつか食べた。駄菓子がこんなに美味いと思ったのは初めてのことだった。本家のタンドリーチキンより美味かった。
自転車の修理を済ませ、デリーでやるべきことを全て終えた僕は、パキスタンとの国境に近い町アムリトサルを目指して出発した。途中に寄った村でいつものようにチャーイを飲んで支払いを済ませようとすると、店の主人は笑顔で首を横に振って金を受け取ろうとしなかった。
僕は、この親切を受けて自分が恥ずかしくなった。金に困っているわけでもないに、いつも、2ルピーのチャーイなら飲まず、1ルピーのチャーイしか飲まないというケチケチした僕に対して、生活のためにチャーイを客に出している店の主人が金を受け取らなかったことが、心のゆとりの違いを感じさせたからだ。ことあるごとに料金を偽るインド人を見下し、彼らに対してイライラしていた自分の頬をはたかれたような気がした。
デリーを出発後、数日で到着したシーク教の総本山、アムリトサルの町は想像以上に、賑やかな町だった。ホテルを探して歩いたが、巡礼の地であるせいなのか、どこも宿泊客で一杯だった。
ようやく空室のあるホテルを見つけてチェックインし、フロントでジュースを飲んでいると、いろんな額に入ったゴールデンテンプルの絵が目に付いた。おまけにそれらの中には電飾でピカピカ光っているものまであった。シーク教の偉いさんらしき人達の絵も額に入って飾られている。恐らく僕は、この人達がどういう人なのか知らずに一生を終えるのだろう。どんなに偉くて、どんなに尊敬されていても、僕はこの額に飾られている人達のことを知らない。そして、このホテルの中には聖徳太子のことを知っている人間は、僕以外におそらくいないだろう。世界には、いろんな世界があるのだ。ここに住む人達の常識と僕の常識。僕と彼らはお互いに常識知らずなのだ。僕はいつも、それを忘れて、自分の物差しのみで話をしようとしている。
受付を済ませ、部屋に向かおうとすると、なんとホテルの中にはエレベーターがあった。ドアは二重になっていて手動で開閉するタイプだった。これまでインドを旅してきてエレベーターを見たのは初めてだった。部屋に入るとすぐにベッドで横になった。国境を目の前にして、これまで旅してきたインドでの疲れが一気に襲い掛かってきたようだった。
朝になって、目を覚ますと体の疲れも楽になっていたので、ゴールデンテンプルを訪れることにした。頭の髪の毛はシーク教の決まりとして、布で覆って隠さなければいけないので、手ぬぐいを巻きつけてホテルのフロントに見せ「これでいいか」と訊ね、問題がなかったので商店の並ぶ賑やかな通りをジュースを飲みながら歩き、ゴールデンテンプルに向かった。
寺院は外から見るとデパートのように大きかった。ぞろぞろと歩く他の巡礼者に見習って入り口で履物を預け、足を洗い中へ入った。寺院の中央にある馬鹿でかい池の真ん中にハリ・マンディル(神の寺院)と呼ばれる本殿がそびえていた。
ハリ・マンディルに続く橋へ回り込んで渡り、中へ入ってみるとシーク教徒たちがごったがえしている。座り込んでお経を唱えている者や、柱をさすっている者など、さまざまだった。中には若い白人の姿も見られる。そのうちの何人かは、お経を開いていたが彼らが本当に読めるのかどうかは疑問だった。
本殿の中では、ずっとキールタンと呼ばれるシーク教の聖歌が流れていて独特の雰囲気を醸し出していた。寺院は全体が大理石で、できているので歩くと気持ちよかった。寺院の一角で、人々が甘露水と呼ばれる水を接待してもらっているのが目に付いた。この水を飲めば素晴らしい効果があるのかもしれない、と思って飲んで見たが普通の水との違いはよくわからなかった。こんなにでかい大理石の建物の中を歩くなんて、もう一生ないかもしれないな、と思いながらゴールデンテンプルを後にした。
翌日、延々と道脇に大麻の自生する道路を走り、パキスタンとの国境に到着した。インドとパキスタンの国境にある両国のオフィスは互いに見栄を張って小奇麗にしているように感じた。
国境を越えた所には小さな古本屋があった。国境を行き来する旅行者たちが身を軽くするために要らなくなった書物や不用品を売ったり、自分に必要な情報を見つけて仕入れるのに都合のいい場所だった。
いろんな本があるな、と感心していると「そこの日本人、何を探しているんだい?」
店の親父が声をかけてきた。
「別に探してるわけじゃないよ。イランの地図なんてここにはないだろう?」
僕はとっさに口に出してみた。
「イラン?あるとも。ほれ、これがそうさ」と差し出したのは英語で書かれたイランの旅行ガイドだった。
「いや、ガイドは持ってるんだ。地図が欲しいんだ。ガイドは要らないよ」
「地図?ああ、地図か。イランの地図もあるはずだ。ほれ、お前さんが欲しがってるのはこいつだろ?」
確かに親父が差し出したのはイランの地図だったが広げてみると粗悪で道も何もわからない。
「いや、その程度なら、僕がデリーで買ったこの地図の方が、まだマトモだよ」
僕はそう言って自分の地図を見せた。
「ふうむ。ならこっちの方はどうだ?」と親父が見せた二枚目の地図を開いてみると驚いたことに正確に道路や小さな町の位置、おまけに町から町までの距離まで記されていた。
まさに探していた理想どおりの地図だ。
「どこを探しても見つからなかったのに・・・」
僕は即決した。これ以上のイランの地図はもう手に入らない。いらなくなった日本語の本を二冊くれてやると親父はタダ同然の値段で譲ってくれた。
「これでイランのガイド本も完璧な地図も手に入った。もうイランは怖くない」
意外な所での掘り出し物だった。僕は売店でマンゴージュースを二本飲み干した後、ラホールの町を目指して走り出した。
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