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アーグラーからマトゥラーへ |
VOL.13 |
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ここはインドなのだろうか?
アーグラーに着くと、今までのインドの諸都市とは違う整然とした町並みに驚いた。どこにもゴミが落ちていないのだ。大通り沿いには計画的に植樹され、交通量も少なく動物の姿も見当たらない。日本では当たり前のことではあるが、インドでは、それがとても不気味で不自然なことに思えた。
ホテルにチェックインして、僕はシャワーを済ませ、手入れの行き届いた庭を眺めながら、タージマハールを見学するかどうか考えた。これまでに出会ったインドを旅行する日本人達の間では、タージマハールを見学に行くか行かないかで、意見が分かれていた。というのはタージマハールが見学料として数百円を支払わなければいけないことや、外からでも遠目に見ることが出来るからである。インドにしばらく滞在していると、数百円という金額がとても高く感じるようになる。何しろ、一食が数十円の国である。何かを手に入れるわけでもなく、ただ見学するということに、数百円を払うというのは正直、もったいない気もしたが、日本に帰ってから後悔するのもバカらしいので見学しにいくことにした。
入り口に着くと、ボディチェックがあった。何も武器なんて持ってないのに、と思ったら、ウエストポーチの中にあった蚊取り線香用のマッチを棄てられた。 「そうあるべきだな」と、日本ではありえない徹底振りに感動した。マッチにすら神経を尖らせる徹底振りに嫌でも期待が高まる。
門をくぐり、いざタージマハールを目の前にすると、その大きさに驚いた。正面に向かって歩いていくと、大理石で建てられた巨大なタージマハールが迫ってくる。一歩前へ進むごとに押し倒されそうになる。気がつくと鳥肌が立っていた。
これが全部、大理石…
タージマハールはムガール帝国第5代皇帝シャー=ジャハーン帝が愛する妻のために20兆円もの財力を投じて建設したという。優美なイメージしか持っていなかったが、なんという力強い建築なのだろうか。
社会科の資料集で見たあのタージマハールが目の前に聳えている。あのタージマハールはこんなにも巨大で雄々しい建築だったのだ。これは本物であって、写真でもテレビでもない。今、自分はインドにいるのだ。インドでタージマハールに圧倒されているのだ。
やはり、本物の迫力というのは体感しておいて損はない。タージマハールを見学した僕は、アーグラー城を見学することにした。堂々とした威容を誇るアマール・スィン門をくぐり、城の中へ入ると、広々としていて、手入れされた庭園があり、ところどころに美しい植物などの模様が壁に描かれていて、戦闘的な外観と大違いだった。
この城には「囚われの塔」という塔がある。誰が囚われていたのかというと、タージマハールを建設した、シャー=ジャハーン帝である。彼は息子のアウラングゼーブ帝によって、ここに幽閉されていたのである。シャー=ジャハーン帝はタージマハールの向かいに黒大理石を材料に同じ設計の自分の墓を造ろうとしていたのだが、幽閉されてしまったせいで、その計画は実現しなかった。
「囚われの塔」からはタージマハールを遠く眺めることが出来る。ここを訪れる人は皆、シャー=ジャハーン帝がどんな気持ちで愛する妻の墓廟を眺めていたか想像してしまうに違いない。
タージマハールとアーグラー城の見学という目的を終えた僕は、ホテルの中庭でくつろぎ、紅茶を飲みながらバナナクレープを食べ、アーグラーからデリーまでのルートの確認をした。すると、バナナクレープを食べた結果であろうか、バラナシ以上の下痢に見舞われることになった。下痢だけでなく発熱の方もひどかったので、ベッドに倒れっぱなしになった。トイレとベッドを往復するのも大変なほど体が衰弱したので、トイレに入るたびに便座に腰掛けたまま、ベッドに戻るための体力を蓄えなければならなかった。
翌日になっても熱は下がらなかった。悪寒がひどく、上着を羽織ってないと寒くて仕方がない。羽毛の寝袋に潜って汗を出しても体調は全く良くならなかった。休んでいたいのは山々だが、タージマハールもアーグラー城も見学したことだし、これ以上、アーグラーで足止めをされるわけにはいかない。
次の目的地であるマトゥラーまでは60km。時速15kmなら4時間。時速10kmでも6時間の距離だ。朝早く出発すれば、昼過ぎ、どれだけゆっくり走っても夕方には到着する。
マトゥラーは、バガバッドギータで有名なクリシュナ生誕の地として有名であるが、ガンダーラ地方と同じくインドにおける仏教彫刻が始まった土地であるということも有名である。どうせマトゥラーでは彫刻を見るために、ゆっくり滞在することになるのだし、少々無理をしても体調を整えるのはマトゥラーにしようと考えて、僕はアーグラーを出ることを決断した。
マトゥラーを目指してフラフラになりながらGTロード(幹線道路)を走っていると、「マクドナルド マトゥラー NOW,OPEN!」と書かれた看板を発見した。そういえば以前に新聞で、インドのマクドナルドはヒンズー教徒のために牛肉を使わないハンバーガーを販売しているという記事を読んだことがあったような気がした。マトゥラーの手前15km程の地点まで走るとマクドナルドが現れた。
「マクドナルドだ!」
僕は急に元気を取り戻した。 タイのバンコックで、マクドナルドを見ても入ろうとは思わなかったし、入っている日本人を見て滑稽に思った。何で、あんな所にわざわざ金を払って入るんだろう、と思った。日本ではマクドナルドは好きではなかったし、現地のレストランより高めに設定されたハンバーガーを食べる気が知れなかった。だが、今の自分にはマクドナルドが天国に見えた。「マクドナルドハンバーガー」という言葉が魅力的に響く。何だかんだ言って、自分はアメリカ一極支配万歳野郎じゃないか、と思ったが、そんなことはどうでもよかった。
カウンターで、マトンバーガーを注文した。メニューはベジタリアン用とノンベジタリアン用に分かれており、ベジが緑でノンベジが赤の紙に包まれていた。インド人たちは皆、緑の紙に包まれたベジタリアン用のハンバーガーを食べていた。ヒンズー教徒は牛に限らず、肉食を避ける習慣があり、上位カーストになればなるほど、それは徹底していた。
窓の外の駐車場には何台もの車が並んでいる。町から離れているこの店に来れるのは車を持っている上級カーストぐらいだろう。「お気楽な身分ばかりだな」と思いながら周りを見回した。農村で皆が着ているボロボロのシャツなぞ誰も着ていなかった。
マトンバーガーを注文して一人で窓際のテーブルに座り、ハンバーガーをかじった。
「美味い!」
マクドナルドはこんなに美味かったのか!いや、明らかに日本のモノとは味が違う。マトンが美味いのか?何なのだろう?一口かじっただけで、その美味さに度肝を抜かれた。 目の前のテーブルでは幸せそうな家族が座っていた。日本と一緒だった。何もかも一緒だった。小さな子のはしゃぐ姿も、それを少し困った顔で注意する母親も、それを見ている父親の笑顔も、いつも日本で見慣れた幸せそうな風景だった。日本となんら変わりがない。これが上流カーストの笑顔か・・・。普段、村で目にしているインド人達もいつも笑顔なのに、心から楽しそうに笑っているのに、ここにいるインド人達は笑顔の種類が違う。どっちも人間らしく楽しそうに笑っているのに、一体、どっちが本当の笑顔なんだろう?
わかっているのは、ここにいるインド人達と同じ笑顔を日本社会で見慣れている、ということだけだ。自分は、室温や衛生を管理された店内にいるインド人達と同じ笑顔の中で育ってきた気がした。自分の笑顔が、どういう環境で育ったものなのかなんて考えたこともなかった。
自分は今、インドにいるのだ。マクドナルドでハンバーガーを齧りながら、タージマハールを見た時よりも強く胸をえぐるようにそう感じた。マトゥラーに着いてホテルの部屋に荷物を下ろすと疲れのせいか、すぐに眠ってしまった。 翌日、体調は随分、良くなっていたので、早速、マトゥラー博物館に行くと休館日だった。博物館が閉まっているのなら、これといって何もすることがないので、水を買って自転車で片道7kmを走ってマクドナルドのマトンバーガーを食べに行くことにした。
荷物を積んでいない自転車は、あまりに軽すぎてバランスをとるのが難しかった。身軽になった自転車で、昨日味わった感動をもう一度、と思いながら信じられないほどのスピードでマクドナルドへ向かった。日本でいる時はマクドナルドへ行くために自転車で7kmも走るということは、まずないのだが、その距離を走ってでも、もう一度、味わいたいくらい感動したのだ。
しかし、マクドナルドへ到着してマトンバーガーを食べてみると、昨日の感動は、もうなかった。一体どこに消えたのだろうか。体調のせいなのか、久しぶりにファーストフードを食べたからなのか、それとも実際に味が違うのか。所詮、人間の感動なんてタイミングによる幻に過ぎないのかもしれない。
翌日訪れた博物館は、ガラガラで僕の他に客はいなかった。様々な仏像に混じって、どこからどう見てもギリシャ彫刻にしか見えない女神像があった。これには驚いた。
ここは本当にインドなのだろうか。
アレクサンダー大王の東征でギリシャの技術者がインドへ流れてきたというが、これはもう、技術者が来たというより彫刻そのものを運んできたとしか思えなかった。どちらにせよ、大陸というものが意外に狭いように感じた。
間違いなく、ここからヨーロッパへは繋がっている。この女神像は地図を見るよりも説得力があった。
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