イスファハンを出発して三日目、遠くの山のふもとに都市が見えた。かなり大きいし、飛行機が着陸している様子も見える。 あれがテヘランだろうと確信して、僕は急いで自転車を漕いだ。テヘランに到着してみると、古いビルが立ち並んでいるだけの特徴のない町だった。中心部まで走って、アキラと再会の約束をしたマシャドホテルを探し、フロントでチェックインしていると、彼が笑顔で現れた。 「ほんとに着きやがったか。昨日、お前が走っているのを、バスの中から見たっていう人が、いたから今日あたり来るんじゃないかって思っていたけどな。まあ、部屋に入れよ」 「本当にお前は真っ黒だな。インド人より黒いぞ」アキラは呆れた顔で言った。 「自転車で旅すると誰でもこうなるんだ。仕方ないだろ」 僕らは、その夜、金獅子飯店というレストランで晩御飯を食べ、テヘランの観光についてや、この先の進路について語り合った。実際のところ、アキラもテヘランには、あまり興味がないようだった。 次の日は、朝から町を散歩した。ホテルの近くには、羊の脳味噌を食べられる店があった。注文してみると、鉄板の上で小刻みにした脳味噌をサンドイッチにしてくれた。味はなく、豆腐みたいな食感である。少し歩くと、カメラ屋街があった。日本製の中古品がゴロゴロしている。恐らくヘディエの家で見たのと同じように革命前に買われたカメラが売りに出されているのだろう。「ニコンF」など、日本だと高価な機種も随分安い。日本製だけでなくローライフレックスなども信じられない値段で陳列されている。 (今度、海外旅行する時は絶対、買い物旅行だな) 女の子が海外で買い物に夢中になるのがよくわかってきた。 翌日、少し外をぶらぶらしてホテルに戻ると、驚いたことにイスファハンで別れたナリ・ユニ・スゲの三人がいた。 「何で、君たちがここにいるんだ?バムへ向かうんじゃなかったのかい?」 彼女達は、このテヘランからイスファハンに入ったので、僕とは逆に南東のバムへ向かうと聞いていた。 「私達は予定を変更して、もう一度テヘランに来たの。どうしても見ておきたい博物館があってね」彼女達は、顔を見合わせて笑った。 バムのような素晴らしい遺跡がある町へ行かずに、こんな面白みのない町に、二度もやってくるなんて、一体、何を考えているのか理解できなかった。韓国人の三人と少し話しをした後、僕はトルコへ向けて出発するアキラを見送った。その晩は、韓国人達とセリナという日本食レストランに行った。彼女達は、またもや滞在期限が切れるということなので、ビザオフィスへ行かなければならなくなっていた。朝になって、僕は、彼女達と共にビザオフィスへ行くことにした。僕のビザは滞在期間に余裕があるので延長してもらえなかったが、彼女達は一週間の延期を認められた。 その晩は、同じホテルに宿泊中の日本人のマナブとゴロウ、マレーシア華僑のエンという旅行者達と、ナリ達三人の韓国人も交えてホテルの屋上に、僕のペルシャ絨毯を敷いて、皆でそこへ座り、夕御飯を食べた。皆、東アジア文化圏ということもあって、筆談ができるのが便利だった。漢字の発音が、それぞれ、どう違うのか調べてみると、やはりよく似ている。「以心伝心」なんかは全く、同じ発音であったので、皆がビックリした。 「韓国では漢字は、あまり習わないけど、ユニは歴史を専攻してたから、よく知っているのよ」とスゲは説明してくれた。 韓国では漢字をあまり使わないとは、全く知らなかった。むしろ日本以上に使用していると思っていたのだが、どうやら、名前など以外には、あまり使用しないらしい。しかし、距離的に中国に近いせいもあって、韓国の発音の方が中国の発音に近いようだった。日本の発音が中国や韓国と違うせいで、 日本が未開の地であったようなムードになった。 僕は一箇所だけ空白にした漢詩を紙に書いた。 清明時節雨紛々 路上行人欲断魂 借問酒家何処有 牧童□指杏花村 韓国人の女の子達は何のことかわからずキョトンとしていた。エンは、しばらく漢詩を見つめた後、空白に「遥」の一文字を入れた。エンの名は「呉崇遥」と書くので、彼の名前に使われている字の部分を空白にしたのだ。 「どうしてオマエは、この詩を知っているんだ?」とエンは不思議そうに聞いてきた。 「我々、日本人は中国の古典に慣れ親しんでいる」 「へえ、信じられないな」 エンや韓国人達は少し驚いたようだった。それから、僕とエンは交互にいくつかの漢詩を紙に書きあって、その詩のどこが好きだとか、どこに共感するか、といったことを語り合った。韓国人達は、エンに意味を通訳してもらうと随分感心したようだった。 「あなた達は、遠い昔の詩人達のようだわ」 「我々は詩を作っているわけではないよ」 詩というものを作ることはできないが、数千キロ隔てた土地で生まれ育ったもの同士が、遠い昔に作られた詩を通じて遊べるというのは愉快だった。それも、このイランで使用されているペルシャ語ではなく、現在の国際語である英語でもなく、この土地と関係のない漢字なのだ。 僕らはすっかり、仲が良くなった。ナリ達が、皆で、テヘランの北にあるラシュトという町に行って、カスピ海へ泳ぎに行こうと提案した。僕は、トルコへの最短ルートから外れるので、やめておくと言ったが、ナリやユニがしつこく誘ってきたので、遠回りだが、カスピ海へ行くことにした。正直なところ、世界最大の湖というものを、この目で見ておきたかった。ただ、問題は、テヘランから、カスピ海に向かうと、西アジア最高峰ダマバンド山(5674m)を有するエルブルズ山脈が行く手を阻んでいるということだ。このエルブルズ山脈を越えなければカスピ海には到達できないのだ。 テヘランを出発して、北へ進めば進むほど緑が増えていった。道沿いには、川が流れている。まるで日本のキャンプ場のようだった。川べりを見下ろすと、木々の隙間から、あちこちで、家族連れのピクニックが見えた。その中にはスカーフを取り外して騒いでいるイラン人女性達も多く見られた。人の少ない所では、イラン人女性だってスカーフを、かぶるのは邪魔くさいのだろう。夕方に近づくと空が何となく曇ってきた。ジュースを買おうとして、店に立ち寄ると数人の男たちが大声で歌っていた。よく見ると顔が赤いし酒臭い。 「なんだ、酔っ払っているのかい?」 「ああ、お前は何人だ?」 「日本からの旅行中だよ。これからカスピ海へ行くところなんだ」 「何?日本人か。俺たちと一緒に飲まないか?ここには酒があるんだ」 「イランでは酒は禁止じゃないのかい?」 「そんなこと関係ない。俺たちは酒を愛してるんだ。酒を飲んで何が悪い?」 「いや、悪いとは言ってないよ。酒ってアラカかい?」 「ああ、そうだ。よく知ってるじゃないか。アラカだ」 「なら、少し飲ませてくれないか」 「じゃあ、店の中へ入りな」 男は店員に、隠していた酒を出させた。僕はグラスに酒を注いでもらって、男たちと一緒に飲み始めた。酔っ払いたちは、肩を組んで、大声で歌いながら騒いでいた。彼らは、革命以前は酒が自由に飲めたのに、革命後は禁酒になったことが、相当不満であるらしかった。酔って派手に騒ぐ人間を見たのは久しぶりのことだったので、何となく愉快な気分になった。彼等の酒を遠慮なくグイグイ飲んでるうちに眠気が襲ってきた。今更、寝場所を探す気にもならない。 「すまないが、僕は今日ここで寝たいんだけど構わないだろう?」 「ここで寝るだって?」 男達は少し驚いた様子だった。 「いいだろう。酔って自転車をこげないんだ。ここで寝るしかない」 僕は強引に、そこで寝ることにした。 翌日、エルブルズ山脈越えが始まった。峠を登っている途中、所々で胡桃を売っていた。売り子は、年寄りから子供達までいて、道端に座り込み、山ほどの胡桃をバケツの水につけ、峠を行く車を相手に商売をしていた。味見しろと声をかけてくるので、食べさせてもらうと随分、美味かった。数時間登り続けて、頂上に着くと、景色を展望できる駐車場があり、屋台でスープやシチューのようなものを売っていた。自転車を停めて、休んでいるとイラン人が写真を撮ってもいいかと聞いてきた。撮らせてあげるとシチューのようなものを買ってくれた。イラン人にとっても、エルブルズ山脈は人気の観光地であり、冬にはスキー客で賑わうという。頂上からは恐ろしい程の下り道が数十キロ続いた。登りは距離が短いせいで、キツかったが、下り道は緩やかな坂のため、数倍長かった。もし、これを反対側から登って来たら、と考えるだけでバカバカしくなった。崖に挟まれた道を重力に任せて猛スピードで下りきると、ついにカスピ海に到着した。ここからラシュトまで何キロあるのか、地図を確認すると約200kmだった。 「200kmって琵琶湖一周の距離じゃないか」 僕はカスピ海の途方もない大きさを、あらためて実感した。カスピ海沿岸の道路は平坦で景色もよく走りやすかった。越えてきた山を見ると緑に覆われ、ふもとには水田が広がり、稲を栽培している。どう見ても日本の田舎の風景だった。砂漠ばかりのイランにもこんなところがあったんだな、と感心した。日が沈んだあとも走り続けていると、いつのまにか時刻は夜の10時を過ぎていた。 「そろそろ、寝るか」 この距離だと、どっちにしろ到着は明日になる。僕は寝ることに決めて、適当な場所を探した。野宿できそうな場所が、なかなか見つからず、途方にくれながら歩いていると、チャーイ屋が開いていたので中に入ってみた。中では数人の男たちがチャーイを飲みながら、ザワザワと雑談をしていた。近くで寝れるような場所があるかどうか、聞いてみると、そのうちの一人が、ついて来いと言うので、自転車を押して付いていくと、カスピ海の浜辺の近くにある小屋に案内された。小屋の中には、老人が一人いた。この小屋で寝ても構わないか、と聞いてもニコニコ笑っているだけだった。横になって眠ろうとすると、老人がこっちへ来いと言う。付いて行くと浜辺には座敷の小部屋が並んでいた。「ここで寝てもいいのかい?」と聞くと、老人はうんうんと頷いたので、僕は、そこで寝ることにした。 朝、老人に礼を言って、僕はラシュトへ向かって走り出した。昼過ぎになって、ようやくラシュトへ到着した。皆と待ち合わせていたファルスホテルに行くとマナブや韓国人の三人は、とっくに到着していた。全員が揃ったので、カスピ海へ泳ぎに行こうということになった。イランでは男女が一緒に泳ぐことは禁止されていて、ビーチは男女別々になっているらしかった。女性用ビーチは壁で覆われており、男性は立ち入ることはおろか、覗くこともできないという。我々は、ビーチに向けてタクシーに乗り込み、運転手に「男女が一緒に泳げるビーチはないのか?」と聞いてみた。 「あるさ。シークレットビーチというものが、この近くにある」 信じられなかった。常に黒いチャドルで、スッポリと全身を隠しているイラン人女性が、屋外において、男性の前で水着になるなんてありえない話だ。僕らは、びっくりした。そんな場所があるのなら、是非とも真実を確かめなければならない。 「じゃあ、そこへ行ってくれ」 僕らは迷わずそう言った。しかし、よくよく考えてみれば、いくら厳格なイスラム教徒の国であるイランだからといって、やはりビーチでは、男女が一緒に、水着で泳いでいるのかもしれない。禁止されている酒だって、全く飲めないというわけではないのだから。堅苦しい規則なんて守っていられないに違いない。 シークレットビーチに到着した僕らは信じられない光景を見た。確かに男女が泳いでいるのだ。水着で泳ぐ男性達に混じって、イラン人の女性達がいた。彼女達は全身に黒いチャドルをまとったまま、楽しそうに泳いでいるのだ。 (まさか、チャドルを着たまま泳ぐなんて・・・) イランという国は、知れば知るほど、理解が難しく思えた。僕は、中学校の地理の授業でカスピ海を習ったとき、疑問に思ったことがあったのを思い出した。 一体、カスピ海は、淡水なのか、塩水なのか。 今なら、自分の舌で、それが確かめられる。水を手にすくってなめてみると、しょっぱい。確かに塩の味がする。長年の謎が解けた。カスピ海は湖だが、塩水だったのだ。 僕らは、水をかけあったり、鬼ごっこをして海水浴を楽しんだ。カスピ海で泳いでいると、この国に熱風の吹き荒れる砂漠があるということが信じられなかった。 しばらくして、韓国人の女の子達は女性用ビーチへ泳ぎに行った。帰りに、彼女達に「イラン人女性達は、泳いでいたか?」と聞くと 「ええ、大勢、泳いでいたわ。皆、すごく美人でスタイルもよかったわよ。すごくフレンドリーで、いろいろ話しかけられたわ。街中とは大違い」 「へー、それはすごいね」 韓国人の女の子達とカスピ海へ来たお陰で、女性用ビーチの様子が聞けて、何か得をした気分になった。僕は普段、いかに、イランの上っ面しか見ていないかということを感じた。 翌日は、マースレーという観光地に、行こうということになった。マースレーは奇妙な景観の村で、山の斜面に家屋が並び、その屋根が、人の歩く通路になっていた。この変わった村並みのせいか、イラン人の観光客が沢山訪れていた。我々はレストランに入り、山並みを眺めながら、コーヒーを飲んだ。仲良くなった、このメンバーで行動を共にするのも、そろそろ終わりが近づいていた。僕はトルコへ向けて走らなければいけないし、他の者達も、それぞれの行く先がある。そういえば、ナリ達の、ビザの期限は大丈夫なのか、と聞いてみた。 「また、オーバーステイ?」 僕は呆れた。ナリ達は、テヘランでビザを切らして延長してもらったところなのに、ここでもビザを切らしたのだ。トランジットビザで2週間以上の延長なんてありえるのだろうか?僕は、彼女達を連れてビザオフィスへ行った。彼女達とビザオフィスへ行くのは三度目のことだ。役人が、簡単に滞在延長を認めてくれたので、皆はホッとした。 「君達、もう早めにイランを出国したほうが、いいよ」 「そうかもね」と、彼女達はニヤニヤ笑った。 僕は、彼女達の図太さにウンザリした。 「じゃあ、皆、気をつけて」 僕らは、それぞれの目的地へ向かうことにした。 カスピ海からタブリーズに向けて出発した僕は、日暮れになってアストナという小さな町に差し掛かった。アストナはアゼルバイジャンとの国境の町である。かといって何か特別変ったこともなかった。宿のようなものは探しても、なさそうだった。完全に日が暮れたので、どこかで野宿でもしようかと考えてると、植木屋が現れた。のぞいてみると「チャーイを飲まないか?」植木屋の主人が、そう言ってチャーイを注いでくれた。 「どこから来たんだ?」と彼は訊ねてきた。 僕が今までの行程を語って、野宿できる場所を探してると言うと 「ここでよければ、その辺で眠ればいい」 主人は、そう言って、もう一杯チャーイを注いでくれた。僕がチャーイを飲み干すと、主人は「おやすみ」と言って家に戻って行った。僕は、突然現れた旅人を、自然にもてなせるイラン人の温かさを、見習わなければと思いながら横になった。 アストナを出て三日目には、トルコとの国境から、すぐ近くのタブリーズに到着した。絨毯で有名なだけあって、バザールを歩くと絨毯屋だらけだった。何軒かの絨毯屋を覘いていると、日本語を話す絨毯屋がいた。少し喋っていると、家に来ないか?というので、彼の家に行って、チャーイを飲みながら話をした。彼は、日本に出稼ぎに行っていたことがあったせいで日本語を話せるようだった。 日本で病気になって、入院していた時に看護婦さんが、随分親身になって世話をしてくれたと懐かしそうに言った。彼は、イラン=イラク戦争で、兵士として戦った経験があるらしかった。戦争では大勢の友人を失った、と辛そうな表情で語った。イラクが憎いかどうか聞いてみると「イラク国民だってつらい経験をしたのは一緒だよ。悪いのは政府さ」彼は落ち着いた口調で言った。僕は、彼と数時間、話をして宿に戻った。 自分は、イランのことが何もわからないまま、出国する。この国で、いろんな人と話をしたし、親切にしてもらったし、あまり良くない思いもした。自分は、この国が好きなのか、そうでないのか、あやふやなイメージだった。しかし、それはそれで、構わないのだ。とにかく走り続けるのだ。 僕は滞在延長の手続きをするために、ビザオフィスへ向かった。ビザオフィスの役人は、愛想良く応対してくれた。 「10日だけでいいのかい?」 「10日で充分だよ」 もっと延長させてもらえたのだが、僕は一刻も早く、トルコへ進みたかった。イランに留まって、理解を深めるよりも、先へ進みたいというエネルギーの方が強かった。トルコには、アジアとヨーロッパの境界であるボスフォラス海峡があり、アジア横断のゴールが待っているのだ。さらに、その先には、テレビでしか見たことのないヨーロッパが広がっている。そう思うだけで気が昂ぶった。とりあえず、早くトルコに入国してビールを飲みたくて仕方なかった。