浅村朋伸の「世界一周自転車旅行記」 三井寺ホームへ

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シラーズでの滞在 VOL.20

クエッタの町並みシラーズに入ると、道路に車が溢れていた。これまでに訪れた町と違って、ここが大都会であるということがよくわかる。町の中央まで走ると、ザンド朝時代に建てられたというキャリーム・ハーン城塞が現れた。僕は、適当なホテルにチェックインして、フロントに、ザへダンで出会ったババクからもらったメモに書かれてある番号に電話をかけてもらった。電話はすぐに繋がって「君の友人のババクは、このホテルに君を迎えにくるそうだ。ホテルの位置も伝えてあるから大丈夫だ」とフロントは言った。しばらくするとババクはやって来た。再会を喜び合うと、ババクは彼の家に泊まるように勧めてきた。荷物を部屋に積み込んだところなので、すぐにチェックアウトするのは面倒臭かった。

「ちょっと待ってくれ、今日の宿代をもう払ってあるんだ。泊まりに行くのは明日にするよ」と言うと「そんなこと気にするな。今から来れば構わないじゃないか。さあ、行こう、行こう」と、彼は強引に僕を自宅に連れ帰った。

ババクの家に着くと、彼の両親や妹が暖かく迎えてくれた。両親は英語がまるっきり通じなかったが、ババクが通訳してくれたので言いたいことはよくわかった。ババクの父親は「今度、日本で開催されるワールドカップを見に行くには、チケットがいくらするのだろうか」とか「日本にはヨーロッパで活躍中のナカタという素晴らしい選手がいるだろう」とか、とにかく口を開けばサッカーの話題で、彼の見るテレビも新聞もサッカーのことばかりである。ババクの妹は、学校で英語を勉強中だったので、簡単な英会話ならできた。人懐っこく辞書を片手に話しかけてくる。

日本のことを話していると、話題はアジア全域に移っていった。「チンギスハーンを知ってるかい?」と聞いてみるとババクと妹は「知ってるよ」と答えた。「チンギスハーンは最低だよ」ババクは随分とチンギスハーンを嫌っているようだった。チンギスハーンは東アジアの日本では、台風の力もあって侵略を退けたので、恨んでいるということもなく一般的に英雄扱いだが、モンゴルに攻め込まれて、領土に組み込まれた西アジアのイランに住むババクの意見は違っている。そのことが僕には新鮮に感じた。

夜になって、イランのガイドブックを読んでいると、
「シラーズで観光したいところはあるか?」とババクが聞いてきた。
「ペルセポリスに行きたいんだ」と答えると
「ペルセポリスは後にしよう、もっと近くで行きたいところはないか?」 僕はガイドブックをめくりながら、シラーズの観光スポットを調べた。
「そうだな、シャー・チェラーグ聖廟を見てみたいな」
「よし、わかった。じゃ、一緒に行こう。ただ、明日は無理だ。明日は自転車レースの大会があるんだ」
「へー、応援しに行ってもいいのかい?」
「もちろんさ。じゃ、明日は早いからもう寝よう」と言ってババクは部屋の電気を消した。  翌日、ババクは自転車の大会に出場した。大勢の若者が参加していたが、ババクは自信たっぷりだった。彼は自転車競技でイランの国内チャンピオンになっただけあって、ぶっちぎりの一位でゴールした。「君はやっぱり、速いな」と言うと、彼は「たいしたことはないさ」と余裕の表情だった。

大会の翌日、ババクは、僕をシャーチェラーグ廟に連れて行ってくれた。外国人は中には入れないらしく、外から眺めるだけである。ババクはイランでの礼拝について男女ではどういう違いがあるかなどといったことを色々と説明してくれた。一度家に戻った後で、ババクと僕は、自転車に乗って、イランの歴史上、最も人気の高いハーフェズという詩人の墓廟に向かった。ハーフェズとはコーランを暗誦できるものを指して呼ぶいい方らしいが、ハーフェズは幼少の頃からコーランを暗誦できたので、そう呼ばれていたという。ババクの部屋にもハーフェズの分厚い詩集が置いてあるし、彼の妹もハーフェズのことがすごく好きだと話していた。

エラム庭園次に、我々はハーフェズと並ぶ詩人であるサアディーの墓廟を訪れた。ここもきれいな庭園のようだった。サアディー廟には地下にチャーイハーネがあったので、少し休憩して、エラム庭園を訪れた。

エラム庭園というのは、シラーズの有名な観光スポットで、イラン人にとっては理想的な庭園であるとババクが説明してくれた。バラが有名らしいが、あまり咲いていなかった。僕は植物にそれほど興味はないので、見所がさっぱりわからなかった。確かに、砂漠や荒野ばかりのイランを旅していると、エラム庭園は別世界に感じる。国民性の違いかな、と考えたが、日本にもバラを好む人は沢山いるだろうし、僕が日本の枯山水に、興味があるわけでもない。単に、僕が庭園というものにあまり興味が湧かないだけなのかもしれない。

庭園を出ようとすると、一人のイラン人が話し掛けてきた。彼は自転車旅行に興味をもっているらしく、僕の自転車を見て「どこから来たんだ?」とか「どれくらい旅を続けてるのだ?」とあれこれと質問をしてきた。一つ一つ、質問に答えると、彼は僕を自宅に招待したいと言い出した。ババクに「後で君の家に戻る」と言って別れ、自転車に乗って付いて行くと、エラム庭園から10km程の住宅地の中に彼の家はあった。中に入り、居間でソファに腰掛けると、皿に盛ったブドウを出してくれた。そして彼は奥の部屋からワインを持ってきた。グラスに注がれたワインは紛れもなく本物であった。シラーズはバラとワインで有名であり、先ほど訪れたハーフェズの墓に刻まれた詩にもワインは出てくるという。シラーズのワインを飲むチャンスなんてあるものではない。理由は簡単で、イランでは飲酒が禁止されているからだ。

「イランでもワインが手に入るのかい?」と聞くと彼は「こいつは自家製さ」と言って笑った。

隣の部屋には大型のテレビが置かれていた。彼は「日本の番組が見たいか」と言った。
「見れるのかい?」と聞くと、彼はスイッチを入れ、チャンネルを合わせ始めた。番組は韓国の恋愛ドラマだった。「これは日本のドラマじゃない。韓国のものだ」と僕が言うと、彼は少し残念そうだった。彼は衛星放送を受信していた。話によると、衛星放送は禁止されているのだが、ハータミー政権はそれほど取締りが厳しくないのだという。アンテナに大きな布さえかけておけば、大丈夫らしかった。彼はイランには自由がないということを色々と説明してくれた。二時間ほど、彼と雑談をした後、僕は礼を言ってババクの家に戻った。

夜になると、ババクは叔父の家でパーティーがあるから行こうといって、僕を連れ出した。ババクの叔父のパーティーは地下で行われた。大人数の家族で、80人程が集まっていた。これが全部親戚だというのだから驚きだった。私的な空間での親戚の集まりであるせいか、女の子は、チャドルではなく、みんな派手な服装をしているし、化粧もばっちり施していた。家の中でお洒落をして、外ではお洒落をしないということが、不思議に思えた。

翌日、ババクの妹の友人であるへディエという女学生の家に招かれた。へディエは色の白い、きれいな女の子だった。彼女の家は豪邸で、部屋に置かれている家具も豪華なものばかりだった。ヘディエに日本のことを何か知っているか、と聞くと彼女は「おしん」を知っていると答えた。

「おしんは、とっても美人だわ。おしんは日本では大人気なんでしょう?」
「おしんが、放送されていたのは随分、昔の話だからね。すごい人気だったらしいけど、僕は小さかったからキチンと見たことがないんだ」

彼女が「おしん」を知っていることは意外だった。「おしん」はイランではとても人気が高いようだった。日本についての話をしばらくした後で、へディエは額に入った絵を持ってきた。

「これをあなたにあげるわ」
「そんなものをもらっても自転車で移動するのには邪魔になる」僕は断ったが、へディエも彼女のおばさんも持っていって欲しいと言って引き下がらなかったので、もらうことにした。何でこんなものを渡すのだろうと思っていると、彼女は何枚かの絵を引き出しから、取り出して僕に見せた。

「私の描いた絵なの」へディエの描いた絵は上手だった。
「何か描いてくれない?」と彼女は言った。
「いや、僕は絵を描くのが下手だからやめておくよ」と断ったが「どうしても描いて欲しい」と彼女は頼んできた。何で、得意でもない絵を描かなければならないんだ、と思って断り続けたが、彼女の母親も一緒になって「絵を描いてくれ」と頼みだした。さっき額入りの絵をもらったばかりだったので、断り続けるのもつらくなり、仕方なく引き受けることにした。何を描こうか迷っていると、中国人女性を描いた皿があったのでそれをマネして描くことにした。絵を描いている途中で、彼女はチャーイを運んできてくれた。

「おしんの他に日本のことを何か知っているかい?」
僕はチャーイをすすりながら聞いてみた。
「日本はいろんな工業品を生産しているわ」
「へえ、よく知ってるね」
「日本製のカメラを持っているの」
彼女はカメラを持ってきた。それは「ニコンF」だった。
「へー、こんな古いもの、どうして君が持っているんだい?」
「お母さんが、若いときに買ったものをもらったのよ」
「ほら、これは、私が撮った写真よ」

と言って、ヘディエは、小さな女の子などが写った数枚の白黒写真を見せてくれた。

「どうかしら?」と彼女は訊ねた。
よくわからなかったが、僕は「いいね」と答えた。二時間ほど経って、やっと絵を描き終わったので僕は帰ることにした。

帰り際にへディエとおばさんは「絵を描いてくれたお礼に明日、昼ご飯を招待したい」と言い出した。この家ではペースを相手に握られて、よくわからないままに時間を過ごしてしまうので断ったが、結局、強引に食い下がられて承知してしまった。

へディエの家から戻ると、ババクに「今夜、親戚の赤ちゃんの誕生日パーティーが開かれるから、一緒に行こう」と誘われた。ババクに連れられて行ってみると、またしても驚くほどの人数が集まっていた。例によって女の子達は派手なファッションだった。ペルシャ音楽が流れ、ダンスを踊ったりしてパーティーは盛り上がっていた。パーティーの間、日本語でバースデーカードを書かされたり、あれやこれやと質問をされて疲れたので、少し散歩するために表へ出た。ブラブラと通りを歩いていると、じいさんに話しかけられた。じいさんは英語を話せないので、何を言ってるのかわからなかったが、コップで何か飲む仕草をして、僕を手招きした。付いて行くと、じいさんは近くの家の門の中へ入った。その家にはじいさんが一人で住んでいるらしく、じいさんは家の中から瓶を持ってきた。

彼は庭に敷かれた絨毯の上に座り、瓶の中身をグラスに注いで僕に差し出した。飲むと、それは酒だった。これはイランの酒なのかと聞くと、そうだという。何ていう名前なのだろうかと身振り手振りで聞くと、「アラカ」という名前らしかった。じいさんは何杯も注いできた。注がれるままに僕はグイグイと飲んだ。僕が礼を言って帰ろうとすると、じいさんは、もう一本の瓶に入ったアラカを出してきて、僕に差し出した。どうやらくれようとしているらしい。酒を持って旅ができればイランの旅も楽しみが増えると思ったが、面倒なことになるといけないので断って、パーティーに戻った。

翌日、朝からババクと彼の友人とペルセポリスに行くことになった。ペルセポリスはイラン人の間では、タフテジャムシードと言ったほうが、とおりが良いと、ガイドに書いてあったが、ババク達に聞くとペルセポリスでも十分通じるようだった。

ペルセポリスは、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世が造った壮麗な都であり、歴史の教科書で知った時から憧れていた遺跡だった。左右に巨大な有翼人面獣が彫刻されたクセルクセス門をくぐると、感動の余り溜め息が、こぼれた。柱の上には角の折れた牛の彫刻が残り、訪れるものを見下ろしている。遺跡のいたるところに、無数に彫られたレリーフが残り、その豪華な都の様子が手に取るようにわかる。レリーフにはあちこちから貢物を携えてきた使者達の姿が彫られ、その貢物や服装によって、いたるところから使者が訪れていたことがわかる。牛に襲い掛かる獅子の巨大な彫刻。まるで映画の中へ紛れ込んだようだが、これはセットではなく、本物の遺跡なのだ。ダレイオス3世を破ってアレクサンダー大王がここに侵入した時も、この都は建設の途中だったと言われる。数千年前、自分が立っているこの地でアレクサンダー大王の軍隊は雄叫びをあげていたのだろうか。僕はババク達にアレクサンダー大王についてどう思うか聞いてみた。「アレクサンダーは侵略者だ」「奴は破壊者だよ」彼等は、やはりよく思っていないようだった。

アレクサンダー大王とチンギスハーンといえば日本では、一般的にどちらも英雄扱いだが、このイランでは両方とも嫌われているのだ。僕は自分が、日本という島国ではなくユーラシア大陸にいることを実感した。ペルセポリスから戻って、ババクと一緒にヘディエの家に来ると、彼女のおばさんは大喜びだった。

「もう食事は用意してあるのよ」

長いテーブルにはピラフのような沢山の料理が載っていた。レストランでは「チェロウモルグ」「チェロウキャバブ」しか見ることはないので、イラン料理というのは、その二種類しかないと思っていたが、他にもあることを知ってびっくりした。

「今日は、一緒にサーカスを見に行きましょう」とおばさんが言った。
「サーカスですって?」
「なんでサーカスを見に行くんだろう」と思ったが、よくわからないままへディエの家族とサーカスを見に行くことになってしまった。へディエはチャドルで外出するのかと思ったら、茶色の服を着て、頭にスカーフをかぶっていた。「君もチャドルを持っているのかい?」と聞くと「もちろんよ」と答えた。

「チャドルは好き?」
「嫌いに決まってるじゃない。あんなもの」

彼女は突っぱねるように言った。やっぱり、チャドルは年頃の女の子には嫌われているのだ。無理もない話だ。へディエの説明によるとサーカスはアルメニア人のものらしかった。以前は禁止されていたのだが、ハータミ−政権になってから許可されたのだという。

始まりにサーカスの団員の一人が歌い出した。歌はインドの有名な歌手の曲らしく、なんとなくインドを思い出した。そして、イランの歌を団員が歌いだすと客席の一人が席を立ち、舞台で踊りだした。すると、全席から拍手の嵐が起こった。何もそこまで盛り上がることもないじゃないかと思って、へディエに訊ねた。

「なんで、こんなに盛り上ってるんだい?」
「あれはペルシャダンスなの。イランではダンスは禁止されているのだけど、ここはテントに覆われているでしょ。本当はダメなのよ」
「何でダンスが禁止されているんだ?」
「そんなの知らないわ」

そういえば、パーティーではダンスを踊っていたが、あれはやってはいけないことだったのだ。その割には、女の子達は、ダンスが上手かった。

イランという国がよくわからなかった。酒はダメ、衛星放送はダメ、ダンスはダメ、半ズボンはダメ、女の子と並んで歩いてはダメ。まるで中学校の校則みたいだ。僕は自分の常識で考えるな、と自分に言い聞かせた。様々な曲芸が次々に行われ、サーカスが終わると、僕はババクの家まで送ってもらった。

コーラン門翌日、僕はシラーズを出発することにした。ババクの母親にお礼を言うと、彼女は泣き出した。ババクは自転車でシラーズの出入り口であるコーラン門までついてきてくれた。ババクは自転車を漕いでいる間、ずっと泣いていた。そんなに悲しいものなのか、と不思議に思った。自分は、新たな土地に対する期待があるから、別れがそれほど辛くないのか、薄情なのか、どちらなのだろうと考えていた。

「ここでいいよ。ありがとう」
コーラン門に到着して、僕はババクに言った。

「ペルセポリスまで付いていくよ」
「えっ?ペルセポリスだって?いいよ。ここでいい」
「いや、付いていくよ」
「何言ってるんだい。ペルセポリスまで50kmもあるんだから、往復100kmじゃないか。本当に、ここでいいよ」
「付いていきたいんだ」
ババクは、どうしても付いて来る気でいるみたいだった。

「君は、この町の人間で、僕は旅人だ。この門は君の町の出入り口だから、ここで見送ってくれたらそれで十分だよ」僕はそう言った。

すると、ババクは、急に怒った顔になり「グッバイ!」と吐き捨てるように言って自転車を反転させ、猛スピードで去っていった。僕は呆気にとられた。自分は何か間違ったことを言ったのだろうか?いくら、ババクが自転車競技のチャンピオンといえど、見送りのために100kmも走ってもらうなんてできない。町の出入り口で見送ってもらう方が、普通の考え方ではないのか?

僕は自問自答を繰り返した。日本では、往復100kmもの距離を自転車で見送るなんてことは普通はしない。日本人はおかしいのだろうか?それとも僕がおかしいのだろうか?いずれにしても、国際人というものが、瞬時にそこまで常識を切り替えないといけないのなら、僕は国際人になるのは無理だ。

数分前まで泣いていたババクが、いきなり怒り出して去って行ったことで、僕はババクとの数日間は何だったのだろうと虚無感にとらわれた。ホームステイで、少しイランに慣れたような気がしていたのだが、やはり意味がわからない。意気揚々とシラーズを出るはずが、後味の悪い出発になってしまった。僕は、ババクになんて言えばよかったのだろう、と考えながらイスファハンを目指して走り続けた。