僕は6号線を走り、西へと走り続けていた。このままいけば、もう少しで、R66に遭遇するはずである。ペンシルバニアを走っていた時に時計が壊れて、時間がさっぱりわからなくなっていたので、1ドルの時計を買った。時間さえ分れば、これから、もっと計画が立て易くなるはずだ。何しろ、自分が何時に起きて何時に寝ているのか、わからない。
インディアナ州に入って、途中で寄ったガソリンスタンドには、シャワーがあった。しかし、値段を見れば、一日の予算に等しい5$である。2週間程シャワーを浴びていなかったせいか、すごくシャワーを浴びたくなった。どうせ、すぐに体が冷えてしまうとわかっていても、今度シャワーを浴びることができるのは、いつかわからない。僕は、意を決して5$という大金を払い、シャワーを浴びた。
身体を洗ってスッキリした後、スタンドを出てしばらく走ると、あちこちに散乱しているビラを拾っているお婆さんがいた。どうやら風でビラが飛び散ってしまったらしい。こちらも急がなければならなかったが、どう見ても彼女に全部拾いきれないほどのビラが大量に飛び散っている。それに動きが遅いせいで、どんどんビラは飛んでいく。僕は自転車を停めて、走ってビラを集めることにした。なるべく遠くのビラから集めて畑の中を走り集め、次に土手に散らばったビラを集め、最後に道路付近に散らばったビラを集めて、全部回収し終わるとお婆さんにビラを手渡した。急いで出発しようと自転車に跨ると、彼女は駆け寄って「ありがとう」と言いながら、僕に20ドル札を差し出した。僕は、格好をつけて謝礼を拒むよりは、受け取って旅に役立て、アメリカ横断を達成するという格好のつけ方を選ぶ方が男の選択だと思って、おばあさんの気持ちを素直に受け取った。
僕はエリエ湖を眺めながら走り続けていた。カスピ海も大きかったが、このエリエ湖の大きさも半端ではない。どう見ても海にしか見えない。琵琶湖なら向こう岸が見えることもあるが、エリエ湖を見ると、まずそれはありえないと確信できる。夕方になって、エリエ湖の目の前のある公園にテントを張った。強烈な風だったのでテントが吹き飛ばされないように、しっかりとぺグを地面に食い込ませる。強烈な風でテントがきしむ。大丈夫なのか、とテントに聞きたかった。それにしてもルーマニアで購入した、この50$のテントはたいしたものだ。たった50$だったけど、本当に、よく僕を守ってくれる。
ミシガン湖に面するゲーリーの町で、図書館に行くと閉まっていたので、インディアナユニバーシティに行ってメールの確認を済ませ、しばらく走っていると、自動車の整備工場があった。車に詳しい整備工ならルート66のことだって知っているかもしれないと思って彼らに道を訊ねることにした。地図を広げてルート66はどこから始まっているんだろうか、と訪ねると彼等は地図を見ながらああだ、こうだと相談を始めた。やはり彼らもルート66がどこから始まっているか知らないようである。
「ルート66の名前をアメリカでは知らない人間はいないが、どこにルート66があるか知っている人間がいないのは、なぜなんだ?」
この質問に整備工の男はムキになったようだ。必死に地図を睨んでルート66を探し始めた。
「この辺りなんだけどな」
「そんなことは僕も知っている。R66までの具体的な道順を聞きたいんだ」
しばらく、地図を見ながら唸っていた彼はあきらめた様子になった。
「ところで、お前は今夜どこで寝るんだい?」と彼は僕に訊ねた。
「毎晩、適当な所で野宿しているんだ。走っていて公園があれば、そこで寝るよ」
「この辺は、ずっと公園なんてないぜ」
「本当かい?」
「ああ、良かったら俺の家に泊まらないか?」
「構わないのかい?」
「ああ。ただし俺の仕事が終わるまで、あと一時間程、待ってくれないか。事務所でテレビを見といても構わない。コーヒーも好きなだけ飲めばいい」
「ありがとう、そうさせてもらうよ」
整備工の男はマイクと言う名前で、この近くに住んでいるらしかった。事務所でテレビを見ていると、しばらくして彼は仕事を終えた。
「今夜は娘が自転車大会に出場するんだ。」
「自転車大会?」
「ああ、BMXさ。知ってるかい?」
「乗ったことはないけど見たことはあるよ。飛んだり回転したりする小さな自転車だろ?」
「そうさ、見に行くか?」
僕は彼と一緒にBMXの大会を見に行くことにした。会場になっている倉庫の中は意外に広く体育館程の広さがあった。下には土が敷かれ、ジャンプ台などの様々な障害物があるコースが作られている。
「すごいな」と僕は感心した
コースの上では、プロテクターに身を包み、ヘルメットを被ったチビッコ達が、次々に派手なジャンプを披露しながら疾走している。
「この大会に、マイクの娘が出るのかい?」
「そうさ、もうすぐ順番だ。ほら、あそこで順番を待っている。あれがウチのチビさ」
「へえ、随分、小さいのに大丈夫かい?」
マイクの娘は速くはなかったものの見事に完走してゴールした。大会を見終わった後、マイクの家でスパゲティをご馳走になった。食事がすむと、マイクと奥さんはインターネットでルート66に関する情報を調べてくれて、この付近のルート66に出るまでの地図をプリントアウトしてくれた。彼らの親切はありがたかった。地図さえあれば、苦労はない。
翌日、マイクと奥さんに礼を言って走り出した。マイクが調べてくれた地図を見ながら進んでいると「オールドルート66 イリノイ」と記された茶色い看板が現れた。これで安心だ。あとは、この看板に従って、道を走っていけばいいだけである。ジュースを買うために入ったガソリンスタンドでは、ルート66に関するグッズが販売されていた。ルート66と描かれたマグカップや、Tシャツなどの御土産が並んでいる。その中で、あるものが目にとまった。ルート66の地図である。
実際に走っていると、一本道であるはずのルート66も、途中で途切れている箇所が多く、その度に代わりの道を見つけて走らなければならない。それには地図が必要だし、州ごとに地図を買っていると、お金が勿体無くて仕方がない。しかし、この地図にはルート66と周辺の道が起点のシカゴから終点のロサンゼルスまで記載されているのである。これほど便利な地図はない。僕は迷わず購入した。
ルート66を通って、奴隷解放宣言で有名なリンカーンが弁護士事務所を開いていたリンカーンの町やスプリングフィールドを走り抜け、いよいよセントルイスの町が川の向こうに見えた。しかし、厄介なことに、僕の目の前にあるのは、明らかに自動車専用の橋だ。他に橋は見当たらない。迂闊に警察で道を訊くと、自転車を車で運ばれるかもしれない。選択の余地は無い。僕は橋を自転車で渡りだした。見つかればアウトだ。対岸までの数分間にパトカーが来なければ成功だ。僕は全速力で自転車を飛ばした。橋が実際以上に長く感じる。走っても走っても、向こう岸が遠くに見える。パトカーが後ろから走ってこないかと、心配しながら、わき目も振らずに必死にこぎ続けて、とうとう橋を渡り終えた。
セントルイスの町にはバドワイザーの本社があった。レンガ造りで要塞のような馬鹿でかい建物である。ついでだからチラリと中を見に行くと、やっぱり工場見学のツアーがあった。見学ツアーということは、タダでビールが飲める。しかし、どのくらい時間がかかるのかと訊いてみると、ツアーには一時間もかかるという。冗談じゃない。一時間といえば距離に換算して15kmも進めるのだ。しかし、ビールは飲みたい。それも本社工場でのビールである。僕は選択を迫られた。一時間を捨てるか、ビールを捨てるのか?この先、ロサンゼルスまでビールが飲めるチャンスなんて滅多にない。しかし、遅れを取り戻すチャンスならいくらでもある。今、ビールを飲んで、後で、遅れを取り戻す。これが結論だった。僕は見学ツアーに参加した。僕の他には数名の参加者がいて、皆で連れだって、ガイドの説明を受けながら工場の中を見学した。ツアーそのものは退屈だった。ただ工場の中が、どれほど馬鹿でかいのか、それはよくわかった。ツアーが終わると、お待ちかねの試飲タイムが始まった。バドワイザーの各種銘柄の好きなものを選んで飲むことができた。バドワイザーは缶も美味しいと思ったことはないが、工場で飲んでも美味しいとは思わなかった。一時間と引き換えにしたのは勿体無かったかな、と思った。
皆がビールを飲んでいると、「何か質問はありますか?」と試飲コーナーの女性が皆に訊ねた。僕は手を挙げて「ビールの王様は?」と言った。彼女はニヤリとしてから「バドワイザー」と答えた。ビールを飲み終えた僕は工場を出て走り始めた。確実に一時間を失ったが仕方がない。バドワイザーの本社でビールを飲んだというのは、いい土産話になるだろう。
夕方になって、ホワイトクリフ公園という所があったので、そこでテントを張ることにしたが、警察に来られると厄介なので係員に警察に通知しておいてもらうように頼んだ。熟睡中に起こされるのはともかく、銃を突きつけられるのは二度とごめんである。
セントルイスから数日でリッチランドという町に差し掛かり、しばらく見ていなかった雪が、またしても降ってきて、路面の状態は最悪になった。進もうにも、雪にタイヤを取られて進めず手足は冷たく、視界は悪い。
スーパーに入ると、七面鳥のスライスと鶏のスライスを見つけた。どちらも40円ぐらいで破格のプライスである。食パンも40円程で売っていたので、5つも買ってしまった。カバンが食料でギュウギュウになり、寒さを吹き飛ばすほどの元気が出た。やはり、食料の力は大きい。昼時になったので、雪の舞う中で、道端に腰掛けて、早速、七面鳥のスライスをパンに挟んで食べてみる。肉は無くても生きていけるのだろうが、やはり、肉を食べると元気が出る。凍えそうな寒さの中、自転車に乗っていると、気のせいでもいいから元気が欲しくなる。ささやかで豪華な食事が終わり、走っていると、トラックから呼び止める声がした。
「君は日本人かい?」とトラックの運転手が僕に訊ねた。
「そうだよ」
「俺の母親も日本人なんだ。すぐ近くに住んでいる。よかったら、寄って行かないか?」
「ありがとう、嬉しいけど、今日は、まだまだ走らないといけないし、やめておくよ」
そう断って、僕は再び自転車で雪の降る道を走り始めた。数時間、走っていると、道沿いに止まっていた車から男が顔を出して声をかけてきた。見ると、さっきのトラックの男だった。
「あんたにさっき出会ったことをオフクロに話したらさ、何で家に連れてこなかったんだって、こっぴどく叱られちまってさ。あんたを探しに来たんだ。そういうわけで、今から一緒に俺のオフクロの家に来ないか?」
なるほど、彼の母親は日本人なので、自転車に乗っている日本人がいると聞いて、ありがたいことに家に招待してくれるというのだろう。
日没までは、まだ時間があり、食料も買い込んでいたし、今日は、まだまだ走れそうだったので、誘いを断ろうかとも思ったが、せっかく探しに来てくれたのだし、招待を受けることにした。日本からの旅行者ということで心配してくれたのかもしれない。僕は彼のトラックの後について行った。
彼の母親の家に着くとまず、シャワーを浴びさせてもらった。そして、お茶と稲荷寿司をご馳走してもらい、いろいろと話を聞いた。彼の母親の名前はミチコさんといって、戦時中は長崎に住んでいて、ミチコさんの実家はオランダ坂の麓で医院を開業していたらしい。彼女は女学校時代に原爆に被爆して、終戦後にアメリカ人の旦那さんと結婚し、アメリカに移住したという。
ミチコさんは大相撲を見るためにNHKを受信していた。随分、相撲が好きな人で、一日に3回の、大相撲の放送を楽しみにしているようだった。NHKのニュースを見ていると、アメリカ兵がアフガンでタリバン兵に猿ぐつわをしているシーンが流れたが、すぐに映像が遮断された。放映権がどうのというテロップが流れたが、情報操作されているようにしか思えなかった。ミチコさんの家を出てから、しばらくすると走行中に自転車の心臓部であるボトムブラケットから異音が聞こえるようになった。ボトムブラケットが壊れると出費を覚悟しなければならない。
タルサの町を目指して走っている途中、スーパーに寄った時に、いい蝋燭を見つけたので買うことにした。蝋燭がなければテントの中で地図を確認することもできないし、真っ暗なテントの中で、夕食をとるのは疲れる。やはり、蝋燭は必需品だ。蝋燭にも種類があって、どの蝋燭が一番、テントに適しているかを見分けなければ、テント生活が全く違うものになる。細いものは、すぐに倒れてしまうし、太いものでも適当な太さでないと、どんどん芯の周りだけ溶けて、ちくわの様になって、使い勝手が悪い。そういうわけで、気に入った蝋燭がなければ買うのを後回しにしてしまうこともあって、結局、蝋燭を切らしてしまう羽目になったりする。いい蝋燭があれば買っておくのにこしたことはない。
連日の強い向かい風で走行に苦労していたが、雨が激しく降ってきた。さすがに雪と違って容赦なく、服がすぐに濡れてしまう。少しぐらいの雨なら、と思っていたが、雨は次第に強くなり始め、全身がずぶ濡れになった。こいつはマズイな。寒さで風を引いてしまっては元も子もない。とは言うものの雨をしのぐ場所がない。しばらく、ボトボトになりながら走っていると、有り難いことに廃屋が見えた。入り口の前には屋根がついている。「ありがたい。ここで休もう」と思って、僕は屋根の下にテントを張り、ずぶ濡れになった服を着替えた。テントの中で荷物を整理していると、外から呼ぶ声がした。テントの外へ出てみるとアメリカ人の夫婦がコーヒーをコップで差し出してくれた。
「ここで一晩テントを張ろうと思うんだが迷惑かい?」
「いや、全然、構わないさ。何かあったら、隣の家に私達はいるから呼びに来ればいいよ。コーヒーカップはその辺に置いておけばいいよ」
雨を逃れて暖かいコーヒーを飲めるとは、なんて幸せなことだろう。僕は夫婦に礼を言ってコーヒーを御馳走になった。
翌日、タルサの町に到着したが、とうとうボトムブラケットが完全に壊れた。しかし、焦りはなかった。心臓部であるボトムブラケットが壊れても自転車が進むことは知っていたからだ。走りがギゴチなくなるだけだ。ボトムブラケットが壊れたのはともかく、僕は道を間違えていた。南へ進んで11番通りを探さねばならないのに、北に向かって167号線を走り、山の中へ進んでいたのだ。辺りは既に真っ暗だった。ぎごちない走りで必死にペダルを踏んでいたのに無駄な労力を使ってしまった。しかし、状況が最悪だったので、かえって気落ちすることもなく、これからどうすべきかを考えた。
今日は自転車屋を見つけるのは絶対に無理だ。これだけ大きな町なら明日にでも自転車屋は必ず見つけることができるはずだ。焦る必要はない。すぐに引き返して、とにかく公園を探さなければならない。まずは、ガソリンスタンドで訊ねることだ。僕はスタンドに入って公園の場所を訪ねてみたが、知っている店員はいなかった。とりあえず町の中心に向かって走っていると、またスタンドが現れた。
「公園の場所を知らないか?」
「さあ、知らないね」
スタンドの店員は、眼鏡をかけた頭のよさそうな若いインド人風の男だった。
「そこに、この町の地図があるから探せばいいよ」
「ありがとう、そうさせてもらうよ。ところで、君の出身はどこだい?」
「バングラディッシュさ。バングラディッシュからイギリスに住み移ったんだが、その後、アメリカにきたんだ」
彼の英語は、とてもきれいだった。おそらく、努力家で才能も行動力もある男なのだろう。ガソリンスタンドの店員というと、日本では普通に感じるが、バングラディッシュ人の彼が、アメリカで働けるようになるまでには、相当の苦労を重ねて来たに違いない。
「公園は見つかったかい?」
「ああ、この近くにあるみたいだ」
「そいつは良かった。気をつけて旅を続けろよ」
「ありがとう」
公園で一夜を明かした僕は、タルサの町を離れる前に自転車屋を探すことにした。一度、町を離れると、当分は自転車屋などありっこない。自転車が生活に密着したインドでは、少し走れば、どんな小さな村にでも自転車屋さんは必ずあるが、アメリカでは自転車は生活の足ではなく趣味に過ぎない。自動車整備工場はすぐに見つかるが自転車屋は探しても見つからないことが多い。自転車屋がないものだから、パンクの修理キットなどの自転車用品を手に入れようと思ったら、ウォルマートのような大型スーパーに行かなければならない。ガスストーブのカートリッジなどのアウトドア用品も一緒で、大型スーパーに行くと一番確実に入手できる。僕は自転車屋がどこにあるのか、何人かに訊ねながら走っていたが、誰も知っているものはいなかった。
これだけ大きな町だから自転車屋ぐらい必ずあるはずだと、諦めずに探していると、なんとか、昼前にオスカー自転車店という名の自転車屋を発見することができた。自転車屋の主人は、僕の自転車を見て「何か必要か?」と言った。
「ボトムブラケットを交換したいんだ。後はスポーク交換」
「なるほどね、ちょっと待っていてくれ」
彼の店は、なかなか洒落ていて、自転車のブランドの古いロゴプレートをガラスケースに展示したりして、喫茶店だか博物館のようだった。店内を見回していると、彼が自転車のことを本当に好きなことが良くわかった。主人は手際よく自転車を修理してしまった。そして自分が撮影した写真集をくれた。値段は驚くほど負けてくれたので全然出費にならなかった。自転車を修理してもらったおかげで、順調に走り、エドモンドに到着した僕は公園にテントを張るとベンチに腰をかけて地図を広げた。ここでようやく半分、いや半分以上に到達していることになる。 走行ペースと予算を計算すると、ロサンゼルス到着は現実的になってきた。
僕は地図を眺めながら「やれるな」と確信した。
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