風が強く自転車は全く前に進まなかった。風があるだけでスピードは半分ぐらいに落ちる。オクラホマは風が強いとは聞いていたが、実際そのとおりである。向かい風に悪戦苦闘している僕の目の前に車が止まった。
車から降りてきた女性は握手を求めた後「そこの教会でコーヒーを飲んでいかない?」と言った。僕は少し考えた。今日はどうせ、風もきついし、たいした距離を進めそうにない。好意に甘えてコーヒーをご馳走になるのも悪くない。教会はすぐそこに見えていた。僕は、彼女の車を追いかけて教会に付いていった。教会の中に入ると、彼女は教会に集まっていた人々に、僕のことを紹介した。しばらくすると、彼等は大きな部屋で、牧師を中心に机を並べて向かい合って座り、聖書を開いて読み始めた。
それが終わると牧師を中心に討論会が始まった。「異教徒との関係について」というテーマだった。机を囲んでいる皆が順番に発言していく。テロのこともあってなのか、異教徒を意識しているようだった。アメリカの教会ではどこもかしこも、この話題でいっぱいになのかもしれない。
討論会の間、何遍もコーヒーやドーナッツが配られた。僕にはとてもありがたかった。
「キリストを信ずる他に我々の採るべき行動はない」とある女性が言って、皆がその意見に頷いて討論会は終了した。
教会を出ると、女性と、彼女の友人の夫婦と一緒にハンバーガーショップに行って、ハンバーガーを食べた。彼女達は「これまで、どこから走ってきたの?」と聞くので、「まず、インドからフランスへ横断して」と僕はこれまでの旅を説明しようとした。
「いやいや、アメリカはどこを出発したんだい?」
「アメリカはニューヨークからスタートしたんだよ」
「ニューヨークからここまで自転車で来たんだって?それはすごい!」
「ニューヨークからは大した距離じゃないよ。その前にインドからフランスまで走ってるんだ」
「聞いた?彼はニューヨークから、オクラホマまで自転車で走ってきたんだって!」
どうも、アメリカ人というのは自国以外のことに関しては徹底的に無関心である。
僕が出発しようとすると、夫婦が車に積んでいた地図をくれた。ウォルマートで売っている全米のマップである。サイズは大きくて持ち運びには不便だったが、有り難くもらうことにした。彼女達に礼を言って走り出したが、風の勢いは弱まっていなかった。ペダルを踏んでも自転車が進まないので、少し走ってテントを張ることにした。随分時間を潰したが、この風では走っていても大した距離は勧めなかっただろうな、と思いながら眠った。
翌日も風は強く吹いていた。向かい風の中を走っていると「ちょっと待ってくれ!」と白髪を長く伸ばした大きな男が車の中から声をかけてきた。
「なんだい?」と立ち止まると
「俺と一緒に、そこのレストランで飯でも食わないか?ご馳走したいんだ。」
「僕に食事を?」
「そうさ、飯でも食いながら話がしたい」
すぐ近くにあったレストランに入ると
「さあ、何でも注文してくれ。好きなものを食べればいい。ハンバーグステーキを食えよ。美味いんだぜ」
ジムは食事をしながら、いろいろなことを質問しては大げさに驚いた後、何か質問はあるかと聞いてきた。
「インディアンってこの辺に住んでいるのかい?」と僕は彼に訊ねた。
「インディアン?どこにでも住んでいるさ。インディアンが多く住んでいる所に行ってみたいか?」
「一度見てみたいな」
「よし、じゃあ、飯が済んだら連れて行ってやるよ。自転車は俺の家に泊めておけばいいだろう?」食事を済ませると、僕はジムの家に自転車を止めて、彼の車に乗り込んだ。
「この辺りは、もうインディアンが沢山住んでいるんだ。この近くに資料館があるから、そこへ行ってみよう」と彼が言うので、行ってみたが資料館は閉館日だった。
「仕方がないな。ここから、少し離れた所に「皆殺しの丘」という場所がある。そこに行ってみよう」彼は再び車を走らせた。
「皆殺しの丘」というところに到着すると、そこは入場料を払ってガイドに説明してもらいながら、インディアンが昔使っていたテントなどを見学するような場所だった。
「よし、入ってみよう」といってジムは2人分の料金を払ってくれた。
僕たちはガイドの説明を受けながら順番にいろんな様式のテントを見て回った。テントではインディアンの生活がよくわかるように、毛皮や様々な道具などが展示されていた。
皆殺しの丘を見学し終わって、ジムの家に戻り、出発しようとすると「寒波が近づいてきている。走らずにゆっくりしといた方がいい。何なら俺の家にでも泊まればいいんだ」と彼は忠告してくれた。
「せっかくだけど、先を急がないといけないんだ」
昨日も教会で時間を潰してしまったし、今日も全く進んでいない。
「暗くなってしまったが、少しでも遅れを取り戻したいんだ」
僕はジムに礼を言うと、再び、走り始めた。真っ暗な中を走り続けた。夜になって、あれだけ強かった風が止まっていたので驚くほど順調に進み、次の日はシャムロックという町に着いてテントを張った。
朝、目覚めるとテントが、ガチガチに凍ってガラスの板が張り付いたようになっていた。どうやら、ジムが言っていた通り、寒波がやってきたようである。テントに凍りついた氷の板をテントの内側からバリン、バリンと叩いて割っていると、外から声がした。どうせ警察だろう、と僕は思った。まさか朝っぱらから銃を突きつけられたりはしないだろうと思って顔を外に出すとやはり警察である。「ここで何をしてるんだ?」人の良さそうな警官はそう質問してきた。もし僕が殺人犯で銃を持っていたら彼は確実に殺されている。アメリカにも、こういう無防備な警官がいるんだな、と思った。
「寝ているだけさ」
「こんな所で寝ていると死んでしまうぞ。ここが何度まで下がるのか知っているのかい?」
「ノープロブレム、アイアム ジャパニーズ」と言うと、警官はニヤリと笑った。
「とにかくこっちにきなさい」
警官は僕をすぐ近くのモーテルに連れて行った。
「僕はこんな所に泊まる金は持ってないんだ」
僕がそう言うと彼は宿泊料金を払ってしまった。
「さあ、今日は、ここで眠りなさい。そして、明日出発すればいい」
「いいのかい?」と聞くと「ノープロブレム、ヒアーイズ アメリカ」と言って彼はニヤリと笑った。
僕は彼に礼を言って荷物を部屋に運び込んだ。荷物を運び終えて、体が温まると、食事がしたくなったので、外へ出ると凍えるように冷たい雨が降っていた。近くのガソリンスタンドでパンとジュースを買い、モーテルに戻ってテレビを見ながら食べた。せっかく町に一日中いるのだから図書館を探してインターネットで、情報でも探しに行こうと思いモーテルを出た。恐ろしく冷たい雨だった。途中で何遍も引き返そうと思いながらガチガチ震えるのを我慢して歩いていくと、図書館は閉館日だったので、諦めてモーテルに戻った。モーテルでは暇なのでテレビを見ていると、ブッシュ大統領が盛んに持ち上げられている。きっと戦時下の日本もこんな調子だったのだろう。
シャムロックを出発して5日目には、ついにサンタローサに到着した。全行程のうち、最後の4分の1に差し掛かったのである。僕は、お祝いに町のガソリンスタンドで、カップヌードルを買って食べた。晴れた空の下で、なぜアメリカのカップヌードルは、こんなに味が薄いのだろうと思いながらラーメンをすすった。
ニューメキシコ州を順調に走っていると、ランニングインディアンという名の土産物屋が現れた。道路沿いには何軒もインディアンジュエリーを扱う店があったが、このランニングインディアンは何十キロも前から大きな看板を道路沿いに大きく掲げていたので名前は知っていた。
中に入ってみると、随分広く、様々なインディアンアクセサリーが並んでいる。トルコ石を使った腕輪や首飾りなど、随分手の込んだ細工のデザインのものが多い。値段もそんなに高いとは思わなかったが、なんせ金がないので買うのは最初から諦めた。いろいろと見ていると店の主人が話し掛けてきた。てっきりインディアンが店を出しているのかと思ったらスペインからの移住者の兄弟の店である。ペットボトルの水を買おうとすると彼等はプレゼントだと言ってタダでくれた。
ランニングインディアンの主人に聞いた通り、しばらく走ると登り道が始まった。どうせたいしたこともないだろうと思っていたが、その登り道は随分、距離が長かった。日も暮れてきたので車に気を付けながら登っていると一軒の店が現れた。中に入って、店のおばさんに「この近くに公園はないだろうか?」と聞くと「ここから下り道に入るまではそんなに長くないわ。越えたらアルバカキよ」と言う。おばさんの言っていた通り、しばらくすると登りは下りに変わった。長い下り道を、光り輝く町を目指して、自転車で一気に駆け下りてアルバカキに入った。
アルバカキの町に入って、すぐにパンクしたので、道端で修理していると、警察がやって来た。
「君は高速道路を走っていただろ?自転車では走ったらいけないんだ。君が走ってるのを車の中から見た人が電話で通報してきたんだ」
「自転車で走ってはダメだなんて知らなかったんだ。それより公園を探してるんだけど」
「すぐそこの信号を越えたところにあるさ」
「ありがとう」
警察への対応も図太くなったものである。自分が悪いことをしているという自覚が無い。僕は、交差点を横切ってガソリンスタンドでジュースを買って、すぐ近くにあった公園でテントを張って寝ることにした。
アルバカキから続く旧66号線の坂道を登り続けていると、シャツに一枚になって走っていても汗だくになった。あのペンシルバニアの殺人的な寒さが嘘のようである。振り返ると昨日越えてきた山地の麓にアルバカキの町が遠く見えていた。
恐らくこの先にはレストエリアもトラックストップも当分現れないだろうと思いながら、走っていると展望地を発見した。そこに使用されていない売店のような小屋があったのでその裏にテントを張って寝ることにした。寒さを気にせず眠れるというのは本当に幸せなことである。
ギャロップを目指しているとインディアンの男が酒の瓶を持って立っていた。
「どこへいくんだい?」と彼は訊ねてきた。
「ロサンゼルスさ」
「へえ、こいつで行くのかい?」
「ああ、何をしてるんだい?」
「ヒッチハイクさ。仕事が終わって、これから帰るところなんだけど車がつかまらねえ」
「ふうん」
「君は矢を使わないのかい?」
「矢?」
「白人達をやっつけるためのさ」
「ああ、あいつらをな。俺の先祖たちは矢であいつらを殺しまくったもんだぜ。でも、奴らにガトリングガンで仕返しされちまったけどな。へへへ」
インディアンの男はそう言って笑った。
僕は、彼と別れて再びギャロップを目指して走り出した。
夜道を走っていると、自転車がパンクしたので、僕は止まってパンクの修理を始めた。さっきから何度もパンクが続いている。
横を走り過ぎていく車の音がうるさくて、チューブに耳を近づけても空気の漏れている音が聞こえず、なかなか、穴の位置が特定できない。それにしても、これだけパンクが続くとなると、絶対にタイヤとチューブの間に異物があるはずなのに、見つからない。僕は何度もタイヤの内側を指で擦った。どこにも手ごたえはない。一体、何が刺さっているんだろう?まいったな。この先に寝れそうな場所はあるのだろうか。
薄暗いヘッドランプを照らしながら作業を続けていると、4WDの道路パトロール車が背後で停車して、パトロール員が車を降りて話し掛けてきた。
「何か、困ったことでもあったのかい?」
「自転車がパンクしてしまってね」
「我々に何か手伝えることはないかい?」
「申し訳ないが、よかったら、ライトを照らしてくれないだろうか?」
「おやすい御用さ」パトロールの車はヘッドライトを自転車に向けてくれた。
おかげで修理の作業は無事に済んだ。
「ありがとう。本当に助かったよ」
「我々は、そのためにパトロールしてるんだよ」
「この近くにレストエリアみたいなものはありますか?」
「少し走ればトラックストップがあるから、そこまで我々が後ろから付いていこう」
「ありがとう」
しばらく走ると、彼らの言った通り、大きなトラックストップが現れた。パトロール車と別れてトラックストップに入り、適当な場所を見つけてテントを張った。トラックストップの明るさにはいつもホッとする。昼間に買った野菜とパンをサンドイッチにして食べた後で、トイレで顔を洗い、歯を磨いて寝ることにした。いよいよ、明日はアリゾナ州に突入することになる。
翌朝、テントをたたんで、トイレで顔を洗い、走り始めると何の問題もなくギャロップを通過して、遂にアリゾナに入州した。これでアリゾナを通過すれば、とうとうカリフォルニアである。この気候なら問題なく進める。ロスは目前だ。
ギャロップから三日目にフラグスタッフの町に到着した。ここからグランドキャニオンに向かう180号線が伸びている。グランドキャニオンに行くべきかどうか、僕は最終的な決断をすることになった。当初の予定では余裕はなかったが、このペースだとグランドキャニオンによっても何の問題もない。グランドキャニオンに訪れるチャンスはこれから何度もあるかもしれないが、自転車で世界を横断している途中で見るのは、これが一生に一度のチャンスかもしれない。この旅のハイライトとしてグランドキャニオンは、ふさわしいような気がした。地球の裏側から始まったこの旅はもう終わりに近づいている。グランドキャニオンを見に行こう。僕はそう決めて、180号線に乗ってグランドキャニオンを目指した。
サンフランシスコ山地の中を抜けていき、登りが終わると美しい山が現れた。次第に辺りが暗くなりだしたので藪の中に自転車を押していき、テントを張った。自分がグランドキャニオンのすぐそばにいるという実感があまりしなかった。
目覚めると、爽やかな朝だった。180号線を走り続けグランドキャニオンを目指していくと、水を買える売店があったので、水を買ってベンチに腰掛けてパンを食べた。隣には自動車整備工場があったのでパンクを修理した。森の中を抜けていくと、賑やかな場所に出た。ホテルが立ち並んでいる。一体グランドキャニオンはどこにあるんだろうと思っていると、並んだホテルの隙間から、赤茶色の峡谷が見えた。僕は急いでホテルの隙間を通ってその峡谷の前に出た。
信じられない光景が広がっていた。いったい、自分の目が見ているこの不自然な大自然はなんなんだろう?ありえない。まったくありえない景色である。見渡す限り延々と大峡谷が続いている。僕は呆気にとられてグランドキャニオンの前で立ち尽くした。僕はしばらくグランドキャニオンを眺め続けた。夕刻のグランドキャニオンが次第に赤く染まっていく。文句のつけようのない壮大な風景だった。
グランドキャニオンから数日で、サクラメント山地の南峠を越え、コロラド川に架かる橋を越えた。コロラド川はあのグランドキャニオンを彫刻した川である。この橋がアリゾナ州とカリフォルニア州の州境になっていた。橋を越えて、遂にカリフォルニア州に入州した。ロサンゼルスはすぐそこである。最後の最後というのに、カリフォルニアでも強烈な向かい風が吹いていた。僕はテントを張ってやり過ごすことにした。
ロサンゼルスは目前に迫っているというのに、向かい風を受けると進む気がしなくなる。もう、ここまで来たんだからいいじゃないか、という気分になってしまう。だが、そうやって最後のゴール直前でやめてしまおうという気分になるのが、いつものことだということもわかっていた。ここで、最後まで走りとおさなければならない、と何度も言い聞かせた。いわば、一年以上の旅で、もっとも重要なポイントである。ここで辞めるか、ロスまで走り通すか。バロチスタン砂漠のように熱い風が吹いているわけではない。カラカラに水がないわけではない。ペンシルバニアのように寒いわけではない。ただ単に面倒臭いだけなのだ。向かい風の中を走って、ヘスぺリアという町に到着し、公園を探したが見つからなかった。しばらく走るとキャンプ場が現れたので、管理人らしき男性に「ここのキャンプ場は公共施設なのかい?」と訊ねた。
「いや、ここは私の経営するキャンプ場だ。泊まる所を探しているんなら、ここに泊まればいいさ。金は必要ない」
「いいのかい?」
「ああ、君は特別さ」
僕は彼に礼を言ってテントを張った。
翌朝、ウォーターマンキャニオンを一気に下り降りると、サン・バーナディーノの町が目の前に広がっていた。
ここまでくればロスに到着したも同然である。僕はロサンゼルスを目指してカリフォルニアを走り続けた。水田やヤシの木があって何となくタイに似ている。日が沈むと、ついに僕はロサンゼルスに到着した。
「ロサンゼルスだ!」
「ここへ来るために一年以上走り続けてきたんだ」
僕は、吸い込まれるように光り輝く巨大なビルの群れの中へ走っていった。
「遣り遂げたんだ」
みんな見ているか?僕はロサンゼルスに到着した。遂に遣り遂げた。やったじゃないか。やっぱり、やれたじゃないか。だから僕はやれるって言ったんだ。嘘じゃなかっただろ?僕が言ったことは嘘なんかじゃないだろ。
僕はバドワイザーを買って勢いよく振って自転車に振りかけた。一人でロサンゼルス到着を祝った後、僕はハリウッドのゲストハウスにチェックインした。受付の女の子は、僕が自転車に荷物を積んでいるのを見て「どこまで走って行くの?」と訊ねてきた。
「どこへも」と僕は答えた。
「あなた自転車で旅をしてるんじゃないの?」と言って彼女は不思議そうな顔をした。
「今日、終わったんだ。一年前にシンガポールを出発してユーラシア大陸を横断して、その後、ニューヨークからアメリカを横断して今日、ロスに到着した」
「今日ゴールしたの?」
「そうだよ」
「たった今?」
「ああ」
「あなたすごいわっ!」と叫んで彼女は僕に抱きついてキスをした。僕の自転車旅行の内容が、彼女に理解できているとは思えなかったが、彼女のキスによって、自転車旅行が成功したことが、僕には、はっきりとわかった。
それから数日後、僕は人生で初めての海外旅行を終えて帰国した。
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