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ネパールへ |
VOL.8 |
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ホテルに入り、フロントでチェックインをしようとすると、六人のロシア人と一人のポーランド人に出くわした。
彼らは、ダージリンに行こうとしていたのだが、ストライキの影響で、バスがストップしているため、どうすべきか相談しているところだった。たった今、自転車でダージリンから降りてきたのだということを話すと、彼らは自転車旅行というスタイルに驚いた後、ダージリンの状態はどうなのだろうか、と訊ねてきた。
ダージリンはストライキでレストランやホテルが閉まっているが、もうじき終わるだろうと説明すると安心したようだった。
「伝染病は大丈夫か?」
とロシア人の一人が聞いてきた。
「病気?」何のことを聞いているのかサッパリわからない。
「新聞を見てないのか?このシリグリで原因不明の死亡者が10人以上出ているらしいんだ、食中毒か、伝染病かわからないようだが」
「へえ、この町が危ないなんて知らなかったよ」
「君も気を付けておいたほうがいい」
リーダーの男はそう忠告をくれた。
やはり、海外というのは、何があるかわからないものだな、と思った。
彼らは、自転車旅行をしている僕に興味を持ったのか、話を聞かせてくれといって、食事に誘ってきたので、シャワーを浴びた後、一緒に近くの食堂へ行くことになった。
リーダーの男は名前をスラワといって、ロシアのサンクトぺテルスブルグに住んでいる実業家で、ベラという美人の奥さんを連れていた。他の者達も男女が二組で旅行していた。ポーランド人は若い女の子で、一人旅をしていたのだが、数日前に、スラワ達に出会って、行動を共にしているらしかった。
スラワは自転車は危なくないのか、どんな苦労があるかといったことを訊いてきた後、話題を日本のことに変えて質問をしてきた。その内容は、侍だとか武道のことが主だった。どうして、そんなことを知りたいのかと問うと、彼は、幼いころから東洋に興味があったらしく、東洋関係の本ばかり読んでいたのだという。ロシアの人間が、小さな頃から東洋に興味を持っていたということに、少し驚いた。僕は、ロシアといえば、ソ連という謎めいた社会主義であるということや、北方領土を返還しないという悪いイメージしかもってなかった。そんなわけで、ソ連の本など読もうとも思わなかったし、読む必要もないと思っていた。しかし、そのソ連でスラワは少年時代から日本に関する本などを熱心に読んでいたのである。僕はスラワに対して少し後ろめたい気がした。
彼等は金に余裕があるのか、結局、ヘリコプターをチャーターして、ダージリンへ飛ぶことにしたようだった。さっきは彼らが僕の旅行のスタイルに驚いていたが、今度はこちらが驚かされた。
その夜は、彼らの部屋で酒を飲んだ。ロシア人は酒好きと聞いていたがその通りである。部屋にはボトルが、数本あり、ガブガブそれを飲んでいた。
彼らは、ダージリンの次はカトマンズへ向かう予定のようだったので、ひょっとすればカトマンズで再会できるかもしれないと思い、我々はメールアドレスを交換しておくことにした。
朝、起きてホテルの入り口に向かうと、昨日、スラワ達と一緒にいたポーランド人の女の子と出会ったので、一緒にレストランへ行って食事をした。
「君は彼らと一緒にダージリンへ行かなかったのかい?」
「私にはヘリコプターをチャーターなんてできないわ」
「普通はそんなことしないさ」と僕は言った。
彼女は仏教に興味があるらしく、これからヨガの先生に会いに行くのだが、一緒に行かないか、と聞いてきた。どうやら、ポーランドにいるヨガの先生の、そのまた先生に会いに来たのだという。
ヨガには、あまり興味は無いが社会主義が終わったあとのポーランドには興味があるので話を聞かせてくれないか、と聞いた。
「やる気と才能のある人間は躍進していってるけど、そうでない人間は付いていけなくなってるわ。今まで通り国が何とかしてくれるんじゃないかって考えて、自分で何とかしようと思ってないのね。変わろうとしないのよ。待っても無駄なのに待ってるだけ。変化に対応したものだけが生き延びているわ」と彼女は答えた。
旧社会主義国も日本も同じようなものだな、と思った。この時代を望んでいた者と、そうでない者とがはっきり別れている。
昼になって、彼女はヨガの先生のところへ行ったので、僕は、ネパールに備えてフリースのジャケットを買っておくことにした。ダージリンが寒かったので、ネパールもある程度、準備が必要だと思ったのだ。
翌日になって、僕はネパールへの国境に向かった。
かねて聞いていた通り、インドからネパールへの国境では、金を払うと何の問題もなく、あっさり60日間のツーリストビザをくれた。 国境を越えてタライ平原を西へ西へと走った。ネパールに入国したからといって、いきなり何かが変わるというものでもなく、インドと変わらない景色が続く。
前の国との間に変化がないというのは旅行しやすいのだが少し残念な気がする。ただ、インドと違っていたのは、村で立ち止まって休憩していても、人だかりができないことだ。チャーイを飲んでいても静かだ。
ある時、若者が数人いたので、そのうちの一人と話していると「インド人とネパール人はどちらが好きだ?」と訊ねられた。
下らない質問をするものだと思いながら「インド人は頭が悪いな」と言って彼らの反応を見ることにした。
こう言うと、ネパール人は、単純に優越感を感じて喜ぶだろうと思ったのだ。実際のところ、僕の中で、インド人のイメージは、すぐに群がって、同じような質問ばかり繰り返す、単純な連中というものになっていた。
「黒いインド人はそうだな」若者はニヤリと笑いながら答えた。
周囲の者達も「ハハハ」と笑った。これには少し驚いた。この返答からすると、
彼らは肌の白いインド人には敬意を持っていて、肌が黒いインド人を馬鹿にしている節がありそうだ。
インドには肌の白いインド人と黒いインド人の二通りがいて、肌の白いインド人は、昔、カイバル峠を越えてインドにやってきた征服者の子孫で、インド社会では身分も高く、映画俳優などになっていたりする。
村や小さな町では見かけない。ネパール人にとっても白いインド人は特別な存在のようだ。「白いインド人達には敵わないが黒いインド人達になら、自分達ネパール人のほうが勝っている」そんな意味を含んだような笑い方だった。 ネパール人もインド人も、一緒だと思っていたが、やはり国が変われば、人間も変わるんだな、と感じた。
五日程、西へ走り、カトマンズに続く峠への入り口であるへタウダという町に辿り着いた。ヘタウダは、これまでのネパールの町の中では、大きく賑やかな方で、町の中心には、大きな通りや交差点があり、いろんな店が並んでいる。
僕はチェックインを済ませた後、町を見学することにした。子供の売りに来るドーナツのような菓子をパクつきながら歩き、疲れたら腰掛けてチャーイを飲み、しばらく休んで、また歩く。何か必要なものはないかと、いろんな店を見て回るだけで楽しい。
日本から持ってくるのを忘れて、ずっと探していた耳カキを露店で見つけて買った。そして、町外れの商店では、プラスチックの桶を買った。これは服を洗濯するときに欲しかったし、自転車の洗車にも使える。宿に戻って、早速洗濯してみると非常に便利だった。
ヘタウダを出発して、カトマンズを目指したが、峠に差し掛かったとき、距離を表示する石柱が道端にあることに気付いた。見ればカトマンズまでの距離は130km近くと示されている。
迂闊なことに、僕は大きなミスをしていた。地図を見て、ヘタウダからカトマンズまでは70kmぐらいだろうと予想していたのだが、実際のところ、細くグネグネと曲がりくねった峠道は地図上の二倍の距離があるということに気付いた。少し考えればわかったはずの幼稚な勘違いである。あと130km以上もこんな峠が続くのだ。やれやれ、と思った。ここでヘコたれたら自分のミスを認めることになる。僕は、息を大きく吐いた後、何もなかったように平然とこぎ続けた。
あのダージリンにだって自転車で登ったじゃないか、カトマンズへだって行けるはずだ、カトマンズに着いたら何か美味い物を食べよう、そう思いながら黙々とペダルを踏んだ。 坂は延々と続き、登れば登るほどカトマンズに近づいていく一方、どんどん気が遠くなっていく。僕は機械のように黙々とペダルを踏み続けた。
自転車が、どんどん山の深い所へ入ってくると、どこまでも登ってやろうという気になってきた。体調が良かったせいか、カトマンズへの峠坂を登るのは楽しかった。一体、カトマンズとは、どんな町なのだろうか、と想像しながらペダルを踏み続けた。こんな何十キロあるのか、わからないような坂道は日本では経験していなかったので、やっぱり外国というのは何もかも桁違いだ、と感心した。
朝から何時間、坂道を登ってるんだろうと考えるとバカバカしくて笑ってしまいそうだった。時折、インドからのバスが黒煙を撒き散らしながらノロノロと登っていく。バスから排出される煙は体に悪いのだろうが、自転車と大して変わらないスピードなので、もろに浴びてしまう。全く迷惑なバスだ、と心底思った。
夕方になり、今日中にホテルがある村に辿り着くのだろうか、と心配しながら登っていると茶屋が現れた。
「この先にホテルのようなものはあるのだろうか?」と茶屋のじいさんに訊ねた。
「あと30km程、登ればダマンという村にホテルがあるよ」
30km!平地なら時速15kmだから、たったの2時間の距離である。しかし、今の時速は5〜6kmだ。速くても5時間はかかってしまう。今から5時間といえば真っ暗ではないか。
しばらくして、すっかり日が暮れた。あたりは暗くて何も見えない。日本で何度も経験しているが、夜の山で暗闇の坂道を登るのは精神的に疲労が激しい。さて、こうなってしまうと厄介だ。僕は、自分を落ち着かせるために、立ち止まってビスケットをかじり、自分が置かれている状況の確認をすることにした。
食料を見ると、ビスケットはあるが、水はそんなに残ってない。しかし、少しずつ水を飲めば、ダマンまでは登れそうだ。
僕は、ヘッドライトをカバンから取り出した。こういうときにこそ、こいつが役に立つはずだと思いながらスイッチを入れると、ヘッドライトの電池の残量は、今にも尽きようとしているのがわかった。なんとヨワヨワしい光だろう。これでは5分も持たない。ライトはパンクなどの非常事態に備えて使うのをやめた。
落ち着いていれば精神的な疲労は少なくできる、と言っても、ここは日本ではない。外国だ。何があるかわからない。とにかく、登り続けることだ。立ち止まっていては何の解決にもならない。ダマンは近いはずなのだ。僕は黙って登り始めた。今の自分にできることといえば、ペダルを踏むことしかないのだ。
それから数時間、暗闇の中で、黙々とペダルを踏んでいると灯りが見えた。
やった、民家だ。集落に違いない。助かった、と思ったが、民家は5軒ほどしかない。はたしてここはさっき聞いたダマンという町なのだろうか? 早速、民家でホテルがあるかどうかを訊ねた。
「この村にホテルはあるかい?」
「そんなものは無いよ」
やはり、ここはダマンではないのか、とがっかりした。
隣の民家でも同じ答えが返ってきた。なんてことだ。僕は、さらに隣の民家にも聞いた。
「ホテルはどこにあるか知らないかい?」
「ホテル?」
「ああ、ホテルさ」
「ホテル・・・」
そこは、明らかにホテルではなく、売店のようだった。
「この村にホテルがあるって聞いたんだけど、知らないかい?」
泊まるところがないんだ、ここに一晩泊めてくれ、と僕は目で訴えた。すると、その願いが通じたのか、主人は僕をしばらく眺めてから「ここがホテルさ」と言って僕を中へ招き入れてくれた。きっと自転車旅行している僕が、宿がなくて途方にくれているのを見かねて、泊めてやろうと思ったのだろう。
「何か食べ物が欲しいだろう?」
「ああ」
主人は奥さんに、僕の分の飯を用意させてくれた。
「おかわりだってあるぞ」
「ありがとう」
彼は、日本から、昆虫の業者がここまでやってくるといった話や、日本やドイツは好きだが、アメリカは嫌いだとか、さまざまな話をした。こんな、峠の小さな集落でも英語で話ができる人間がいるとは驚きだった。
食事が済むと、彼は、隣の物置で寝ればいいと言って、僕を物置に案内してくれた。そこにはガラクタに囲まれたベッドが置いてあった。
物置に自転車と荷物を積み込んでベッドに横になり、ひょっとして、ここは本当にホテルとして営業していたことがあったのかもしれないなと考えながら、僕はぐっすりと眠った。
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