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カトマンズの生活2 |
VOL.10 |
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パタンという町は、赤茶けたレンガ造りの町並みが残り、全体が中世をそのまま保存したような雰囲気である。観光客は入場料を払わなければならないが、現地の人間は、ここで普通に生活をしている。少し歩けば、通り沿いで金ダライを使って洗濯する女達がいたり、野菜や日常品を売る店があったりする。かといって、観光客相手の商売も行われていて、笛売りの少年が、何気なく旅行者の隣で笛を吹いて値段の交渉を始めようとする。
僕は、スラワ達と、このパタンで待ち合わせして一緒に観光する約束をしたのだが、時間に大幅に遅れてしまい、仕方なく一人で町を観光していた。工芸の町と言われるだけあって、工房などが沢山あり、金銅仏ばかりを集めたタメル地区周辺の店とは違って、木彫の仏像の専門店や木彫の面を彫っている店もあった。
タンカと呼ばれるチベットの仏画を扱う店も、そこいらにあり、小さなものの中には雑なものもあったが、大きなものは見ているだけでも溜め息がこぼれるほど色鮮やかで精密なものが多かった。町の中心であるダルバルスクウェアとよばれる広場には、石造りのクリシュナ寺院や、レンガ造りのずっしりとした旧王宮があり、その隣にはパタン博物館が建っている。中には多くの金銅仏が収蔵されており、ネパールにおけるチベット密教の影響が一目瞭然だった。僕は、一人でパタンの町を歩きながら、ゆっくりと観光を楽しんだ。
パタンから戻り、夜になって、スラワの宿泊しているホテルへ行き、約束の時間に遅れたことを謝りに行った。彼等はちっとも怒っておらず、次はバクタプルに行こうという約束になった。今度は遅れないようにするよ、とは言ったものの、再び、待ち合わせの時間に、しっかりと遅れた。
バクタプルのダルバルスクウェアでウロウロしていると、広場に面した建物の二階にあるレストランから、僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。顔をあげて、声のする方を見ると、スラワ達が手を振っている。彼等は先に到着してレストランで、僕が到着するのを待っていてくれたらしかった。
バクタプルもパタン同様にレンガ造りの建物が並ぶ町で、町の中心には、やはり旧王宮があった。日本でいうところの吉祥天であるラクシュミーを祀るニャタポラ寺院は、高さ36mの秀麗な五重の塔で、ネパールでは最も高く、塔の基壇も5段あり、1段めから順番に闘士、象、ライオン、グリフォン、女神が一対ずつ並んでいて、それらの力は、それぞれ下の段の10倍の力を持っていると説明があった。
バクタプルにも生活している人々は多くて、子供たちが遊びまわっていたり、路地を入るとビニール袋に野菜を入れて歩いている買い物帰りの女性がいたりする。おそらく、カトマンズもダルバルスクウェアを中心として、このような町並みであったのが、開発が進んだために、こういう美しい町並みが失われたのであろう。僕らはバクタプルをひと回りしてカトマンズへ戻った。
数日後、スラワ達はバスでポカラへ移動することになった。ポカラというのは、人気のリゾート地で、湖のほとりでヒマラヤの景色を眺めながら、まったりしたり、トレッキングに出かける旅行者が多い。スラワ達は「一緒に来ないか」と僕を誘ったが、自転車で移動するのは面倒だったし、バスでポカラへ行って、またカトマンズへ帰ってくるというのも面倒臭かった。僕はカトマンズに残るといってスラワ達に別れを告げた。
カトマンズには、日本人が多く滞在しているホテルが、いくつかあった。僕は、そのうちの一つへ何度も足を運び、あちこちから来た日本人旅行者に話しを聞いたり、ガイドをコピーさせてもらったりしながら情報を集めた。そこで知り合ったアキラという大阪出身の旅行者が、「ホーリーを一緒に見ないか」と誘ってきた。ホーリーというのは、町中が水浸しになるほど水風船をぶつけ合う祭りである。
「ああ、そうしようか」と僕は彼の意見に賛成した。
「かなり危険らしいから安全な場所で見よう」
「どこで見ようか?」
「本屋の隣のベーカリーの二階にしないか?」
「じゃあそうしよう」
翌日、僕とアキラは待ち合わせして、一緒にホーリーの祭りを見ることにした。祭りが始まると水風船はどこからも飛んできた。ビルの上からも地上からも水風船が飛び交い、あっという間に、町中が戦場のようになっていく。事前に祭りのことを知らなかったのかどうかしらないが、ビチョビチョにされた白人の中には、怒ってネパール人に突っかかっていく者もいた。水風船をぶつけられて楽しむ人間もいれば、怒る人間もいる。うっかり外に出た白人の女性がもみくちゃにされていた。一緒にいた男性が止めようとしていたが無駄な努力だった。こうなるとルールも何もあったものではない。祭りに関する情報をもっていれば、安全な場所で見物できただろうに、と気の毒に感じた。
水風船による戦争が終わると、あたりは一面水浸しになっていた。たまたま、アキラが祭りのことを教えてくれたから、見物して楽しめたものの、何も知らなければ、僕も、水浸しにされてあの白人のように怒っていたかもしれない。見知らぬ土地では、情報が大事であることを再認識させられた。
僕は、ネパールからインドに再入国する計画を立てていたが、不安なことが一つあった。それは、インドのカルカッタを出発した後、ATMが中々見つからなかったことである。他の旅行者の情報によれば、首都デリーにはシティバンクが存在するというが、それまでは、どこにATMがあるのかわからないので、どうやってインドルピーを確保するか、僕はその方法を考えなければならなかった。カトマンズでネパールルピーを大量に下ろして、インドに入る時に、それをインドルピーに両替してもらうにしても、随分と不利なレートを押し付けられるらしいので避けたかった。アキラに相談すると「トラベラーズチェックを使ったらどうだ?」と提案された。僕は、これまでトラベラーズチェックというものを利用したことがなかった。何となく、面倒なイメージがあって、敬遠していたのだが、他の旅行者達は、大多数が使用しているというので、いつまでも面倒臭がるのはやめて、使ってみようと思った。早速、トラベラーズチェックを作成するために、ATMで約三万円分のネパールルピーを下ろした。ネパールでは、一日、千円ほどで過ごしていたので、これは相当な額である。僕は、その金を持ってカトマンズの中心にあるアメリカンエクスプレスに向かった。
「チェックを作りたいのだけど」
「現金ですか、カードですか?」
「現金で」と言ってネパールルピーを差し出した。
「これでは作れません」
「えっ?」
「ネパールルピーは弱いので、ここでは使用できないのです」
「これは、あなた達の国の金じゃないですか」
「できないものはできません」 できないって言われたって、こんな大量のネパールルピーをどうしたらいいというのだ。カトマンズで使ってしまえっていうのだろうか?いくらなんでも出国を目前にして、こんな無駄遣いはできない。僕は腹が立った。ネパールで、ネパールの金が使えないなんて一体どういうことなんだろう。意味がわからない。
いずれにせよ、このルピーを何とかしなければならないのだ。僕は、町の両替屋でルピーをドルにして欲しいと頼んでみた。「それはできない」と店の主人はあっけなく断った。やはり、ネパールルピーという金は、弱いから欲しくないのだ。ドルの方が大事なのだろう。これが、この国の常識なのだ。僕は自分が大きな失敗を犯したことをあらためて感じた。次に訪れた店では、両替をOKしてくれた。しかし、大量のルピーを引き取るのは嫌だというので、何軒もの両替屋を訪ねて小額ずつ両替した結果、ようやく全てのルピーをドルに両替することができた。金に強弱があることをこれほど体感したのは、僕にとって、これが初めてだった。これからは、まとまった金を引き出す時は気をつけなければいけない、と自分に言い聞かせた。
ある日、町で知り合った女の子とジョッチェンという地区で焼き飯を食べた。ジョッチェン地区というのはタメル地区のように多くの旅行者が滞在している場所で、タメル地区ほど何でも揃っているというわけではないが、その分、物価が安いのでジョッチェン地区を好む旅行者も多かった。「何のためにそんなことしてるの?」と彼女は僕が自転車旅行をしている理由を問いかけた。
「決まってるじゃないか。自慢するためだよ」
「自慢するため?」
「ああ、そうだよ。だって考えてもごらん、自転車で世界一周したって言えば、一生自慢できると思わないかい?年を取って、年寄りをバカにする若者に会ったとしても自転車で世界一周したって言えばバカにされないで済みそうじゃないか。日本で一流の大学を出たところで、海外では誰も日本の学校の名前なんて知らないだろう?でも世界というモノの広さと自転車の小ささは誰もが知ってる。僕の計画では、80年の人生の中で、たった一年数ヶ月と、90万円を費やせば、一生、世界中どこへ行ったって自慢できるんだ。安いとは思わないか?」
僕がとっさに出鱈目な理由を口にすると「なるほどそうね。あなたのい言うことはもっともだわ」と彼女は納得した。僕は何だか、二人の会話が無性にバカバカしくなった。彼女はボダナートへ行きたいというので、二人でボダナートを訪れた。一度目に来た時より、のんびりした気分だった。訪れたのが二度目だからなのか、ロシア人ではなく日本人の女の子と来たからなのか、理由がよくわからなかった。
僕らは、それからパシュパティナートに向かい、バグマティ川を眺めた。ヒンズー教徒にとっては聖なる川なのだろうが、本当に汚い川だ。もしうっかり傷口を川につけたら大変なことになりそうだ。「聖」というのは視覚的なものではないということが嫌でもわかる。ゴミが浮いていようが濁っていようが、それは僕が決めたイメージによる「汚れ」であって、「汚れ」など、どこにもない。そんな言葉に実体はない。しかし、そうみると反対に「聖」もない。ただ、その川はヒンズー教徒にとって聖なる川であり、僕にとっては、汚れた川である。
「この川の中に一体どれくらいのバクテリアがいて、どういう活動をしているのだろう?君はそういうことを勉強しているのかい?」
「私が勉強してることは少し違うけど、ここに学校の先生が来たら宝の山だと言って大喜びするわ」
物事にはいろいろな見方があるものだな、と思った。
何度か日本人宿に通った結果、ようやくパキスタンについても、町の情報は手に入ったが、イランの地図と砂漠に関しての情報は入手できないままだった。砂漠の情報は、カトマンズでは手に入らない気がした。恐らく、現地に近い場所の方が入手しやすいのではないのだろうか。これ以上、カトマンズにいることは無意味なように思えた。
日本人宿に泊まっている数人の旅行者達と、夕食を食べ、ディスコへ行った。騒がしい音楽の中で、数本のビールを飲んだが、気分は高揚しなかった。自分が、カトマンズに滞在し続けることに疲れているのがよくわかった。僕は皆と別れてホテルへ帰った。
何日間この町にいたんだろう?僕は部屋の壁にもたれかかったままになっている自転車をじっと見つめていた。最後に自転車に乗ってからどのくらい経ったんだろう?しばらく考えているうちに部屋が停電した。真っ暗な部屋でビールを飲みながら、カトマンズでの滞在日数を数えようとしたが、はっきりわからなかった。もうここで遣り残したことは何もない。イランの地図は探すだけ探して見つからなかったのだから仕方がない。とりあえずパキスタンについては地図が手に入ったし、砂漠という問題も明らかになった。明日、ここを出発してインドへ戻ろう。あの峠を越えてインドへ戻るのだ。これ以上、この町で時間と金を費やすわけにはいかない。明日からは、また自転車の生活だ。
カトマンズはヒマラヤがそばにあって、歴史的な観光地も近くにあって土産物屋や本屋がある。安くて美味いものがある。友達もすぐにできる。ここで毎日、美味いものを食べて、ビールを飲んで寝る生活は楽しいかもしれない。しかし、僕は、ここにビールを飲みに来たわけじゃない。こんな生活を送っている場合ではないのだ。僕は暗い部屋の中で、明日目を覚ましたらこの町を出発しようと決心した。
朝、起きてみると熱があった。体が重い。そういえば、昨日、一緒にご飯を食べに行ったメンバーの中に風邪を引いている人間がいたことを思い出した。
とりあえずチェックアウトする前に、外を歩いてみて、体調の様子をみることにした。フラフラと町を歩きながら、雑貨屋で財布を買った後、目をつけていたインドの地図を買った。それはロンリープラネット社から発行されたもので、インド全土が一冊の本になっていた。小さな町と大きな町と大都市との区別がわかりやすく記されていたのが気に入ったのだ。どうせ、インドに戻って地図を買おうとしても質の悪いものしか見つからないだろうし、新しい州に入るたびに地図を買いかえるのは面倒臭くて経済的でもないからだ。
体調は悪かったが、天気はいいし、少し汗をかけば楽になるだろうと思って走り出すことにした。峠の一番高いところにあるダマンまで行かなくても、宿が途中にあるのはわかっている。ダマンまでいくのが無理なら、そこで泊まればいい。僕はもうこれ以上カトマンズにいたくなかった。一刻も早く旅立ちたかった。そうしなければ、世界一周を達成することができなくなるような気がしていた。タメル地区に向かう時は道がわからなくて苦労したが、脱出するのは簡単だった。
体調が悪くて、ダマンまでは登れず、峠の差し掛かりにあった村に泊まったが、夜は寒くて眠れなかった。夜中に悪寒で何度も目が覚めた。ガチガチと体が震え頭が痛い。何度も鼻をかみながら、こいつは重症だな、と思った。朝になっても頭がボーっとしていたので、自転車に乗るのは無理かと思ったが、宿を出て歩くと、意外と体が軽かった。出発するべきか否か、小屋のような食堂で、チャーイと目玉焼きの朝食を取りながら考えた。
出発するならば、少し登ればそれでいい。ダマンまで登ってしまえば、後はヘタウダまで下りだから自転車に跨っているだけでいいのだ。そんなにキツくはないはずだ。どうしようか?と僕は考えた。ヘタウダまで行けば暑いはずだから、この寒い村より体調を整えるにはいい。大事をとって、この村で明日まで布団をかぶってベッドに横になっているのもいいが、気温の低さが気になる。しかし、ヘタウダなら寒さに震えることはないだろう。ダマンまで登って、一気にヘタウダまで下り、気温の高いホテルで寝たほうが良いのかどうか。朝食を済ませた後、村を少し歩いてみた。頭痛は無い。体も重くない。ダマンまでなら登れる気がした。
僕はホテルをチェックアウトして自転車で走り出した。ゆっくりでいいのだ。慌てる必要は無い。ダマンに着けば、後は自転車に跨ってるだけでいい。天気がよく、汗がうっすら滲むほど温かかったのが幸いだった。疲れたら何度か自転車を停め、日向ぼっこをして、気持ちと身体を落ち着かせ、ゆっくりと登っていった。昼過ぎには無事にダマンに到着した。レストランに入ると、モノクロのテレビが放送されていた。よく電波が届くものだと感心しながら、調理して出されたインスタントヌードルを食べた。外に出てみると雲もなくヒマラヤが良く見えた。
「あれがランタンだ。エヴェレストはあそこ」
レストランの若い男は指差しながら教えてくれた。これでヒマラヤの景色ともお別れだな、と思った。最後に素晴らしい眺めを見れたことは幸運だった。雑貨屋で、少し値段の高い水とビスケットを買ってダマンを後にした。ここからはヘタウダまで下りだということがわかっていたので楽だった。いつものことだが長い下り坂を下っていると、自転車が壊れないだろうか、などと考えてしまう。下りは楽なのだが気を付けていないと、石ころなんかを踏んづけてバランスを崩したら、簡単に自転車が吹っ飛んでしまうので、ブレーキに指をかけながら、道に何かが落ちていないか見ていないとダメだし、前や後ろからくるトラックにも気をつけていなければならない。特にカーブに差し掛かったときのトラックは要注意である。下り坂に限ったことではないが、ミスは大事故に繋がるので集中していなければならない。それにしても、何十キロも続く坂道を一気に下るのは、なんて気持ちが良いのだろう。僕は、周囲に広がるネパールの山並みを楽しみながら坂を下っていった。
自転車は、あっという間にヘタウダに到着して、僕はカトマンズに向かった時と同じホテルにチェックインした。ここで体調を整えるために二泊することにした。体調のよくないときにインドを旅すると簡単に病気にかかりそうだったし、ヘタウダの町は割と気に入っていた。思ったとおり、ヘタウダは気温が高くて、身体を休ませるには丁度良かった。ここからインドに向かう道は、東から来た行き道と違って、南へ向かうルートになる。ヘタウダの南にはビールガンジという国境の町があり、そこを通過すれば再びインドに入国である。二日間休んだお陰で、体調もすっかり良くなって、ヘタウダを出発すると、インドとの国境へはそれほどの距離はなかった。
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