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カトマンズの生活1 |
VOL.9 |
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翌朝、僕は主人に、朝御飯をもらって出発の準備を整えた。彼の店にはビスケットなどが置いてあったので、昼食用に買っておくことにした。
「ボトルの水は無いのかな?」
「あるとも」
彼はそう言って、数本のボトルを棚から取り出した。僕は3本のミネラルウォーターを買ってカバンに積めた。
「カトマンズへ行くのか?」
「ああ、そうだよ」
「カトマンズはいいところさ。絶対に行くべきだよ」
僕は、ありがとう、と礼を言って出発した。 朝の清々しい空気の中で峠を登っていくと、ダマンへはすぐに辿り着いた。
立ち寄った茶店で「ここからは降りだ。また登り道があるけどな」と聞かされ元気が出た。
ダマンから降っていくと、昼過ぎには麓の町へ辿り着いた。何台かのバスが停車していて、あちこちに大きな看板があるせいか、とても賑やかに感じる。町で昼飯を済ませ、また坂を登ることになった。普通ならうんざりするところだが、カトマンズは目前だとわかっているせいか、嫌な気はしない。ノロノロと走るバスを交わしながら、坂を登っていくと、目の前に大きな町が見えた。カトマンズ盆地だ。とうとうカトマンズへ着いたのだ。
時刻は夕方に差し掛かっていた。町の外れとはいえ、通りは車で溢れ帰っている。僕は、いくつもの交差点を越えて、海外からの旅行者が集まるというタメル地区を目指した。あちこちで道を尋ねながら、ようやく、タメル地区に到着し、とりあえず、引き込みに連れて行かれた路地裏の安宿にチェックインして、そこを拠点にすることにした。
部屋は狭く、薄暗い。蛇口をひねると、錆びを含む赤茶けた水が出てきた。何となく、この部屋が誰にも見つからない秘密基地のようで気に入った。僕は早速、タメル地区にいる間に、やらなければいけないことを考えた。まず、なんといっても情報収集をしなければならない。そのために、あの長い峠を越えてきたのだ。必要なのは、イランとパキスタンに関する情報。できれば、地図やガイドが欲しい。そして、自転車のワイヤーとブレーキの交換。僕の自転車は、シフトワイヤーがちぎれて、ギヤチェンジができなくなっていたし、ブレーキのゴムも磨り減ってなくなりかけていた。あとは、いらない荷物を日本に郵送してしまうこと。さしあたって、それらをやってしまわなければならない。
カルカッタで聞いたとおり、世界中からバックパッカーが集まるタメル地区には安宿、インターネット屋、本屋、レストラン、両替屋、食料品店、雑貨屋、衣類店、といった旅行者にとって、必要な殆んどのものが集中しており、昼夜を問わず、町中に各国のバックパッカーが溢れていた。
タメル地区には本屋が多く、日本語の古本もあちこちで手に入れることができた。日本人が本を読むのが好きな国民性であるということは有名らしく、日本語の古本を1万冊そろえている本屋もあった。
僕は、タメル地区に来た一番大きな目的である情報収集を始めることにした。何件かの本屋をまわって、通過予定の国に関する旅行ガイドと地図を探してみると、簡単にパキスタンの地図が見つかった。町と町の間の距離数も表示されているなかなか上等なものである。探し物の一つ、パキスタンの地図は手に入ったが、イランの地図は、どこを探しても見つけることはできなかった。そもそもイランの詳細な地図なんて発行されているのだろうか?
毎日、毎日、何軒もの本屋を、イランの地図を求めて歩いた。かろうじて見つけたのはイランの旅行ガイドだった。ガイドには幹線道路と主要都市を記した簡略な地図は掲載されていたが、それだけでは不安がある。ガイドは観光地や、食生活、物価などの情報は網羅していて、イランがどういう国なのかというイメージはつかめるが、観光地以外の町が、どういう規模で、どこにあるのかといった情報は皆無だった。道を走る上で、自転車旅行に必要なのは、水や食糧の補給が行える小さな町や村の存在位置なのだ。それはやはり詳細な地図に頼らざるを得ない。イスラム圏については情報は万全にしておきたかった。何しろ物騒で苛酷な自然環境であるというイメージしか浮かんでこない。
宿に戻って手に入れたばかりのパキスタンの地図を広げてみて、僕は愕然とした。パキスタンから、イランの国境へ向かう道は、バロチスタン砂漠という600km程の砂漠地帯を貫いているではないか。まさかとは思っていたが、実際に砂漠を走らないといけないのだ。
地図によれば、砂漠に道が通っているとはいえ、砂漠なんて自転車で突破できるのだろうか。飲料水や食料は補給できるのだろうか?それ以前に、気温はどのくらいあるのだろうか?砂漠の中には、3つ程の村が記されているが、今も人がいるのだろうか?もしかしたら見捨てられて廃墟になっているかもしれないのだ。どう考えても無補給で600kmの砂漠を突破するなんてことは不可能に近い。地図に記載された情報以上の、もっと詳しくて確実な情報が必要だ。地図を手に入れたことによって、不安は具体的な問題となった。僕はベッドの上に広げた地図を睨んだまま、しばらく金縛りにあったように動けなかった。
バックパッカーだらけのタメル地区を出ると、あたりにはカトマンズの人々の日常生活が溢れていた。道の両側に並ぶ、レンガ造りの建物は、木枠の窓に細やかな透かし彫りが彫られていて、見ているだけで楽しい。通りを抜けていくと、様々な店が並んでおり、サリーの生地や鍋、食器、真鍮の壷などが並べて売られている。野菜もカリフラワー、タマネギ、トマト、大根、といった日本でもお馴染みの物が並んでいる。座り込んだ婆さんが、麻袋に入った色とりどりの香辛料を並べて売っていて、その前を、野菜の満載されている荷車を牛が引いていく。
旧王宮があるダルバルスクウェアに行くと、寺院や建物が立ち並んでいるのが目に飛び込んで来る。一本の木で建設され、カトマンズの名前の由来になったというカスタマンダップ寺院をはじめ、様々な建築が並んでいる。シバ神と妻のパールバティが顔をのぞかせる、シバ・パルバティ寺院や、生き神の少女クマリが住むクマリの館などがあり、旅行者達と、彼等を目当てにした土産物売り、そしてリキシャが集まっている。
バガバティ寺院の軒を支える柱には、蓮台に乗った男女神が彫られ、その下に交合神、さらにその下には面が彫られている。どこを見てもとにかく木彫が多い。 旧王宮のカーラバイラブは真っ黒な体に、まん丸い目で、赤い眉をしており、耳には緑の飾りをつけ、黄色と赤色の宝冠を被っている。すぐそばには、神に捧げるためのものであろう花輪が売られている。
タメル地区では日本語がちょっとした流行になっていて、日本語で金を稼ごうという人間に出会うことが多かった。タメル地区の呼び込みは、歩いている日本人を見つけると「トモダチ、トモダチ」と言って声をかけてくる。おそらく、英語圏で使用される「マイフレンド」という呼びかけをそのまま日本語で使用しているのだろう。
あるとき、暇つぶしに入った宝石屋で、ショウケースに並んだ色とりどりの宝石を見ていると、宝石屋の若い店員が、僕に向かって、日本人であるかどうか尋ねてきた。いかにも日本人だと答えると「これから暇な時に、この店へ来て、茶でも飲みながら喋り相手になってくれないか?」と彼は頼んできた。日本語を勉強中なので日本人と話して日本語を聞き取る練習をしたいのだという。
宿泊しているホテルのフロントで働く若者も日本語を勉強中だった。日本語をマスターすることは金につながるのだと言う。彼は日本語教室に通っているらしく、カタコトの日本語なら理解することはできた。僕と話すときに、彼は常に、「トモダチ」と呼びかけるので、あるとき、彼に日本では人に呼びかけるときには「トモダチ」なんていう言葉は使わないのだ、と教えてやると、「じゃあ、なんと呼んだらいいのだ?」と訊くので、日本人には「お兄さん」とか「お姉さん」と呼ぶほうが自然だ、と言ってやった。日本人から直接、教えてもらったせいか、彼は、随分有難そうだった。
「日本語の学校へ行っています。是非あなたも一緒に授業に参加して下さい」
ある日、フロントの若者は、そう言って僕を日本語教室に誘った。用事があるわけでもなく、相手に悪意があるわけでもなさそうなので、誘われるまま彼について行くことにした。
日本語教室には、数名の若者が日本語を勉強しにきていて、黒板に書かれた平仮名の読み書きや、疑問文などの練習をしていた。先生はネパール人で、日本語の基礎は理解しているようだったが、発音や言葉使いはよくわからない場合もあった。ネパール人達は、僕を先生と呼び、時々、質問をしてきた。僕が受けていた中学校の英語の授業も、英語圏の人間が見れば、こんな風に見えたのかも知れない。僕は中学校の英語の授業を思い出した。そして、決定的な違いに気づいた。教師がどうであるかという以前に、僕は彼等のように熱心に授業を受けていなかったのだ。僕は、彼等に先生と呼ばれることが、堪らなく恥ずかしくなった。
ある日、ダージリンからシリグリに戻った時に出会った、ロシア人のスラワ達が、カトマンズに到着したというメールが届いた。
早速、教えられた住所のホテルへ行ってみると、彼等はそこにいた。我々は再会を喜び、酒を飲んだ後、僕は、スラワたちと一緒に、スワヤンブナートという仏教寺院へ行く約束をした。
翌日、彼らのホテルからタクシーに乗って、そのスワヤンブナートヘ向かった。スワヤンブナートは高い丘の上にあり、門をくぐると長い石段を登らなければならなかった。
門をくぐったところでは、五名の少年僧侶が、エンジ色のラマ教の袈裟を砂埃で、白くして五体投地をしていた。五体投地というのは、合掌して、足と膝、肘、頭を地面につけた後、全身を伏せて祈るというものである。これを繰り返しながら前進するのだから、わずかずつにしか進めない。本当に気の遠くなる行である。五体投地という言葉は日本でも耳にすることはあったが。実際に見たのは初めてであった。長く続く石段を登って行き、頂上に辿り着くと巨大なストゥーパが現れた。お椀を逆さまにして箱を載せ、串を刺したような形をしているストゥーパには四面にブッダの眼が描かれていて、世界の四方を遍く見通しているという意味があるらしかった。塔からは、タルチョーといわれる白、赤、黄、緑、青の旗が、無数に万国旗のごとく四方八方にはためいていた。よく見ると旗の一枚一枚には細かい経文が書かれている。高台にあるスワヤンブナートからは、カトマンズ盆地が一望でき、眺めを楽しんだり、撮影をしている者が大勢いた。スラワが二年前に来た時は、モンキーテンプルの愛称通り、サルが沢山いたということだったが、サルの姿はそんなに見かけなかった。
次に訪れたボダナートも、スワヤンブナートと同様に、お椀を伏せたような形をしていたが、こちらの方は、さらに巨大だった。タルチョーも同じく無数になびいている。宇宙の中心といわれるストゥーパの基壇を数百個のマニ車が、ズラリと取り囲んでいて、巡礼達が、回すと経典を読んだのと同じ功徳があるというマニ車を一つずつ、回しながら歩いている。
ストゥーパの周囲には、土産物屋がズラリと取り囲んでいて、ここでも仏像、仏画、カバン、小物などといった、巡礼や旅行者を目当てにした商売が多かった。ストゥーパには登ることもでき、上からは景色がよく、ネパール人の家族や、暇そうな夫婦が座り込んだり、寝転んだりしていた。 最後に、僕たちは、ボダナートから歩いて、ヒンズー教の聖地であるパシュパティナート寺院へ行った。寺院の中へ観光客は、入ることはできないが、その前を流れるバグマティ川の岸にガートと呼ばれる火葬場があり、遺体を火葬してバグマティ川に、その灰を流す儀式を見るために大勢の観光客が集まっていた。遺体は布で覆われ、火をつけられるとモウモウと煙を上げる。旅行者が多いせいか、現地人のガイドも多く、突っ立っていると勝手に説明を始めて金を取ろうとする。他の旅行者に付いているガイドの説明を盗み聞きしていると、バグマティ川を挟んだ対岸の崖にある洞窟で、ミラレパが修行したと言っている。ミラレパは修行の末に空を飛んだりする術を身につけたといわれる超人で、日本の役小角のような存在である。
僕とスラワたちは、すっかり仲がよくなった。日本にも興味があるという彼らは、日本食が食べたいと言って、日本食のレストランを案内してくれないかと頼んできた。
僕は、何度か行ったことのある日本食のレストランに、スラワ達を連れて行った。彼らは、茄子の炒めたものや、味噌汁、日本酒などが随分気に入ったようだった。僕は、ロシア人のスラワ達が日本食を絶賛するのを見て、自分が日本人であることが誇らしく思えた。
自分は日本人なのだ。このカトマンズで、ネパール人やロシア人達といった異国の人間達に触れることで、自分は日本人なのだという認識が強くなるということは予想していなかった。おそらく、彼等が日本について勉強していることが、原因なのかも知れない。日本という国は、外国人から興味の対象となっているのだ。自分は、彼等以上に自分の国について知ろうとしているだろうか。
自分は、日本人であるというのに、日本のことを知らなさ過ぎる。彼等に日本のことについて説明してやれないのが恥ずかしく、悔しかった。僕はもっと日本のことについて知りたくなった。自分は日本人なのだ。これからは、もっと、このことを自覚し、日本について勉強すべきだと思った。
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