浅村朋伸の「世界一周自転車旅行記」 三井寺ホームへ

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ブルガリア VOL.26

 国境を越えてブルガリアに入国すると、随分と荒廃した風景に見えた。
 
ボロボロの小屋のような店が並び、ゴミが散乱している。持っていたヨーロッパのイメージとは違う。ヨーロッパというのは、もっと洒落たイメージがあったのだが、これでは、まるでインドに引きずり戻されたようだ。美しいヨーロッパというのは幻想に過ぎないのか。国境近辺にあった売店で「せっかくだからブルガリアのビールで乾杯しよう」ロブが言った。ビールを注文すると「アステカ」と「カメニッツァ」という名前のビールを出してくれたので、両方とも飲んだ。「想像していたよりもブルガリアは荒んでいる気がする」と僕が言うと「ここは国境付近だからさ」とロブは何でもないように言った。
 
僕達は入国してから小さな町を走り継ぎ、ヴェリコタルノボという町を目指してスターラ山脈を越えようとしていた。ロブの自転車にはリヤカーが付いているので、坂を登るのは随分大変そうだった。僕は、先に峠を登りきって、展望台のように見晴らしのいいカフェでロブを待った。カフェからの眺めは最高だった。ジョッキから、こんもりと盛り上がった泡を吹き飛ばし、連なる山並みを眺めながら、僕はビールを飲んだ。汗がスーッと引いていく。十五分程して、彼も頂上に辿り着いた。
「ロブ、ビールを飲むか?」と僕は聞いた。
「もちろんだ」
汗だくになったロブはビールを注文し、カバンから地図を取り出してテーブルの上に広げた。
「もう、この峠を下ればヴェリコタルノボだ」

イスタンブールにいるときに、僕が一人で立てた計画では、ブルガリアを三日で通過する予定だった。なにしろパリまで一ヶ月で走ろうという計画である。しかし、ロブは目の前に迫ったヴェリコタルノボに、少し滞在しようと考えているらしい。ロブの地図によれば、ルーマニアを目指す僕達のコース上に観光できるような町は一つしかない。それがヴェリコタルノボである。僕は一泊ぐらいならしてもよいが、滞在を楽しむ気はなかった。ヨーロッパが寒くなる前に、なるべく先へ進みたい。滞在するつもりなら、一人でどうぞ、というのがロブに対する本音だった。夕方になってヴェリコタルノボに辿り着いた。ブルガリアに入って初めての大きな町である。

  さて、どこにチェックインしようか、と二人で自転車を押しながらホテル探しを始めたが、目に付いたホテルでは、どこも満室だと断られた。意外に人気のある観光地なのかもしれない。この様子だと値段の安いホテルどころか、空き部屋のあるホテルを見つけるのは難しいな、と思いながら歩いていると、一人の太った女性が声をかけてきた。
「あなた達泊まるところを探してるんでしょ?」
「そうなんだ」
「私の所に泊まればいいわ。値段は安いわよ」

僕達に声をかけてきた女性の名はローザといい、旦那と二人で暮らしているが、旅行者を自宅の空き部屋に泊めるために、客引きに出てきていたのだ。値段を訊ねてみると、高くなかったので、彼女に付いて行って、どんな部屋か見ることにした。
 
町の中心から、城に向かう道を少しそれたところに彼女の家はあり、通された部屋の中には、彼女の旦那が描いたという絵や、置物がずらりと並んでいた。ゴチャゴチャとした変わった部屋ではあったが、ブルガリアの一般家庭に泊まるというのも悪くないだろうということで、そこに泊まることにした。
 
穏やかな気候のせいか、落ち着ける町並みや景色のせいか、僕は、一泊でこの町を離れることはできず、ロブと共に二泊、三泊と滞在し続けていた。大抵、朝になると、僕達は町の中心にあるカフェでカプチーノを飲んだ。驚いたことに町を歩いている男が少なく、殆んどが、若く美人の女の子ばかりで、露出度の高い刺激的なファッションに身を包んでいる。我々がカフェに通っていた理由は、通りを歩いている女の子の品評会を開くためだった。そばのテーブルにも女の子は沢山いたので、英語を使用せず、我々は日本語を使っていた。日本語だと、まず聞き取られる心配がないので、どんな会話だって堂々とできるが、英語ではそういうわけにはいかない。国際語として便利な英語も、こういうときには不便でしかない。

  カフェでの品評会が終わった後、それぞれ別行動をとるのが、僕達の行動パターンになっていた。ロブはカメラを抱えて町を歩き、僕は別のカフェに移動してビールを飲んだ後、町をぶらぶらする。夜になれば、適当なバーもあったし、いくつかのクラブもあり、どこも随分盛り上がっていた。

  「お前は何人だ?」と聞いてくるので日本人だと答えると、日本人に会ったのは初めてだ、と言って酒を勧めてくる。女の子たちも日本人が珍しいのか喋りかけてくる。冷戦時代の社会主義によって、宗教色が薄れたとはいえ、もはや、ここはキリスト教文化圏であってイスラム教文化圏ではないのだということがよくわかる。

  ある時、いつものようにロブと別れた後、一人でビールを飲んでいると、隣のテーブルに、ビックリするような美人の女の子が座っていた。話し掛けると地元の学生で、きれいな英語を使う。彼女の名前はエミリアといった。町を案内してくれないかと聞くと、彼女は「じゃあ、店を出ましょう」と言って案内を引き受けてくれた。

  彼女に連れられて歩きながら、ヤントラ川の中州に立っている像が、アッセン王だということや、この町がかつて第二次ブルガリア帝国の首都としてアッセン王のもとで栄えていたが、トルコによって滅ぼされたことなどを教えてもらってるうちに、僕は、この町は早く立ち去った方がいいと思い始めた。どうにもこうにも居心地がよすぎる。美しい町並みも、落ち着けるカフェも、賑やかなクラブも、友好的でスタイルのいい女の子たちも、素晴らしすぎるのだ。もう少しこの町にいると僕は出発の決断をできなくなるに違いない。

  大主教教会がそびえるツァレヴェッツの丘を見に行った後、町の中心へ帰って、エミリアと一緒に食事をしていると彼女は「いつまでこの町にいるの?」と聞いてきた。僕は、明日も会わないか、と誘おうかと考えたが「残念だけど、明日出発するんだ」と彼女に言って別れた。

   しかし、翌日になっても出発はしなかった。できることなら出発したかったのだが、行動に移せなかったのである。いつものように、ゆっくりと起き、ロブとカフェでくつろいだ後、一人になって町を歩いていると、この町から動く気を失いかけていた。

「だめだ、何を考えているんだ。パリへ急がなくてはならない。そして、ロサンゼルスへ行かなければならない。明日だ。明日、必ず出発しよう」と僕は決めた。

ベリコタルノボには中華料理の店があり、僕とロブは二回ほど、その店に入ったことがあった。中国人の家族が経営しているので味がよく、おまけにチャイナドレスを着た美人のブルガリア人の従業員がいることもあって僕はその店が気に入っていた。偶然、通りで出会ったロブに僕は言った。
「ロブ、今晩も中華料理を食べに行こう」

明日、出発するなら最後に中華料理を食べておきたい、それで踏ん切りをつけようと思って誘ったのだが、食べ物にはこだわらないロブが珍しく「今日はワインを飲まないか?行きたい店があるんだ。高くはないから金の心配はいらない」と熱心にワインを飲もうと主張する。中華料理がよかったが、ワインでも構わないという気もしたので「じゃあ、そうしよう」と答えて、後に付いて行くと、ロブはローザの家の近くにあるレストランに入った。そこは僕達が、毎朝、カフェに向かって通りを歩いていくときに、顔を会わせる女の子が従業員として働いている店だった。

  なんだ、ワインというより彼女と話がしたいだけだろ、とロブの顔を見ると「昨日も、ここへ来たんだ」と彼は言う。女の子が目当てなら一人で来れば良かったのに、と僕は日本語で言った。肉料理を注文して、僕達はワインを飲んだ。ロブが誘うと女の子もテーブルに座って一緒にワインを飲み始め、彼女の学生生活について話が弾んできたところで、買い物帰りのローザがレストランの前を通りかかった。ローザは僕達の姿を見つけると店の中に入ってきてテーブルに座り、機関銃のように、そのレストランの悪口を喋り始めた。一体なぜこんな下らない店にあんた達はいるんだい?こんな不味いところで食べるのなら、私が料理を作ってやるのに、と夢中で喋り続けている。ロブは慌てて「ここの料理は、とても美味しいんだ」と言ってみたが、ローザは止まらなかった。女の子はすっかりふて腐れている。どこにでもこういうオバサンはいるものだな、と思った。夢中で喋り続けるローザを見ているのが愉快だった。しばらくして、ローザは何かを思いついたように帰っていき、レストランは静かになった。女の子は怒っているのか、黙り込んでしまったので、僕達は店を出ることにした。ロブはローザに腹を立てているかもしれないと思ったが、彼もローザがおかしくてたまらないようだった。

  宿に戻った僕はロブに「ヴェリコタルノボには一泊だけの予定と考えていたのだが、居心地のよさのためにグズグズと五日間も滞在してしまい三日で通過するはずのブルガリアで既に一週間を過ごしている。このままでは先へ進めないので明日、出発するよ」と考えを伝えた。「もう少しいてもいいじゃないか」というロブに「絶対に出発する」と言い張ると、ロブも明日、出発すると言い始めた。「留まりたいのなら一人で、留まればいいじゃないか」と言ってみたが、ロブは「一人で留まるのは面白くない」と言う。おそらく、彼と一緒に旅行している限り、これから先もペースが上がらないだろうと考えると、できれば、彼には、ここに留まって欲しかったが、それを強制するわけにはいかなかった。
 
目が覚めて部屋で出発の準備をしていると、ローザがコーヒーを運んできてくれた。
「ルーマニアは危険だから気を付けたほうがいいわよ」
「ルーマニアって危険な国なのかい?」
「気を付けないと、すぐにモノを盗まれるわよ」
ローザはそう忠告して部屋を出て行った。
「盗まれるってジプシーのことかな?」
「そうだろう、気にすることはない」

僕達はローザが入れてくれたコーヒーを飲み干すと、自転車と荷物を外に運び出し、ローザに礼を言って自転車で走り始めた。町を外れたところで休憩し、ローザからもらったオレンジをかじっていると、やっと次の町に向かって動き出したという実感が湧いてきた。
「なあ、今からなら引き返せるぜ、トモ」
ロブは出発してからずっとヴェリコタルノボの素晴らしさを繰り返し説明していた。
「引き返したいのか?」
「当然だよ、俺はここから動きたくない。お前もだろ?」
「いや、僕は早く前へ進みたいんだ」
 
イスタンブールからパリへは一ヶ月で走る予定なのだ。スタートからこの調子では計画も糞もへったくれもない。ゆっくりと町での滞在を楽しもうとするロブとは、早く別れたほうがお互いのためだ。ルーマニアに入国したら、すぐにロブと別れよう、僕はそう決めていた。この男は、いい奴には違いないが旅のスタイルが違いすぎる。

  僕達はルーマニアへ続く峠を走り、国境の手前で野宿した。いよいよルーマニアが目の前に迫っていた。