国境を越えてチェコに入国しても雨は止まなかった。手足は凍えて感覚を失っている。これから北上するにつれて寒さはきつくなるに違いない。このままレインコートも防寒具も手袋も持たずに旅を続けるのは厳しいだろう。ましてや、雪が降り積もっているアメリカに渡ったらどうなるのだろう?この装備と残金では進めば進むほど過酷になっていくに違いない。しかし、ロサンゼルスという目的地がある以上、進まなければならない。
国境から続いていた林を抜け、ようやく町を見つけたのでスーパーに入り、ポテトチップを買ってスーパーの軒下で雨が止むのを待った。ヨーロッパの寒さが、これ程とは迂闊だったと考えているうちにポテトチップを食べ終わり、雨が小降りになったので再び走り出した。雨の中を走っていると、ヨーロッパにいることを寒さが実感させてくれているようだった。
プラハへ差し掛かると、道路は急に巨大になり、高速道路が張り巡らされていた。あちこちに巨大なビルが立ち並び、今まで見てきた東欧の中では随分と経済が発展しているように見える。開発された新市街地区を通り過ぎて、ようやくプラハの旧市街中心に辿り着き、とりあえずナリやユニが宿泊しているとメールで知らせてきたホステルを探し始めた。あちこちで人に位置を訊ねていると、それらしきところまで辿り着いているということはわかるが、どこにホステルがあるのか見つけられない。ウロウロ探しまわった後、雑貨屋に入って、カウンターで訊ねると、店の老婆が、そのホステルならすぐ隣だ、という。おかしいな、通り過ぎた記憶はないのだがと思っていると
「アサムラさん!」
店の外から、いきなり苗字をサン付けで呼ぶ声がした。振り返ると店の前に、イランで出会った韓国人のナリが立っている。
「今着いたの?」
「ああ、君等が泊まってるホテルを探していたんだ。どこにも見当たらないけど、このあたりなんだろ?」
「すぐ隣よ。気付かなかったの?」
「全くわからなかった」
「こっちこっち!」とナリは僕をホステルに案内した。
彼女の泊まっている宿は本当にすぐ隣にあった。看板が目立たなかったので気付かなかったのだ。
「今、ユニは出かけているからいないの。もうすぐ帰ってくるわ。アサムラさんを見たら彼女ビックリするわ」
「とりあえずチェックインしなきゃ」
「私たちはドミトリーに泊まっているの。アサムラさんもドミトリーでいいでしょ。ベッド番号は私が決めてあげるわ」
そう言ってナリはフロントと話をして、僕のベッドの位置を勝手に決めた。ドミトリーの部屋は五階にあったので、荷物を持って上るのが大変だった。
「アサムラさんのベッドはここ。隣はユニのべッド」
勝手にユニの隣の位置に決められたのは少し不満だった。しばらくして、ユニもホステルに帰ってきたので、僕らは近くの食堂に夕飯を食べに行き、今までの経緯を報告しあった。
彼女達は、イランからイスラエルに行き、しばらく滞在した後、フランスの修道院で生活して、そこからプラハへ来たのだという。彼女達のリーダーであるスゲは、アメリカ人の恋人との結婚準備のため韓国に帰国したということだった。あれから三ヶ月も経っているのか、と僕は、あらためて実感した。
僕達がイランのカスピ海で別れたのは、まだ7月の終わりだった。8月になってトルコに入国し、カッパドキア、地中海、エーゲ海と遠回りしたために、イスタンブールへの到着は遅くなり、ヨーロッパに入って遅れを取り戻すはずだったのに、ブダペストまでロブと共にゆっくりと進んだので一ヶ月を費やした。本来なら、今頃はアメリカを走っているはずだ。少なくともパリにいるはずなのだ。
しかし、このプラハからパリまでは急いでも2週間はかかる。時間はどんどん失われていく。いや時間のことは、この際、構わない。問題は金だ。金が尽きれば旅は終わりだ。もし、計画通りにアメリカを走り始めているのなら、おそらく深刻なアクシデントがない限り、ロスへ到着するだろう。しかし、今からパリへ走り、アメリカに飛んで、ニューヨークから走り始めてロスを目指すとすれば、金が保つのだろうか。
ドミトリーには、ブラジル人の女の子、オーストラリア人の男、中国系アメリカ人の女の子、フランス人の男が泊まっていて、僕が到着する一週間前からプラハに滞在していたナリとユニは、他のメンバーたちとすっかり仲良くなっていた。夜になってドミトリーに泊まっている七人で「ロキシー」というクラブに出かけることになった。
映画館を改造したらしい建物の中に入ると、中は広く、正面には大きなスクリーンがあって映像が流れている。映像に向かって大人数が踊り、舞台の上でも踊り狂っている。僕とフランス人の男は、チェコの女の子三人と仲良くなって、一緒に酒を飲んでいた。彼女達の話では今夜のイベントが終わった後、別の場所でアフターパーティーがあるという。イベントが終了して皆が帰ろうとしている時にフランス人の男が言った。
「明日のバスでプラハを出てパリに戻らないといけないから、バスでぐっすり眠るために今夜は眠りたくないんだ。アフターパーティーに行かないか?」
どうせ早起きする理由も、何かやるべき予定もない。明日はフランスへ帰るのだというこの男が、最後に眠りたくない気持ちもわかる。僕と彼は、三人のチェコ人の女の子に従って場所を移した。
アフターパーティが終わると朝の11時になっていた。帰ろうかと聞くと、彼はアフター・アフターパーティに行かないかという。バカバカしい気になったが、ホステルに戻ってもすることがないことを思うと、酒を飲み続けるのも悪くない気がした。
僕らは、再び場所を移し酒を飲んだ。「10日間という短い休暇だった。帰りたくない。また、プラハへ来るよ」と彼が言ったのを聞いて、明日はパリか。大変だな、と思ったが、自分だってここでノンビリしてられないことに気がついた。やっと、ロブと別れて一人になり、ペースを上げないといけないというのに、他人が出発するのをノンビリと見送っている場合ではない。それなのに、絨毯も郵送せずに何をしているのだろう。僕だってパリへ向けて急いで出発しないといけないのだ。朦朧として外へ出ると、とっくに昼の二時になっている。僕達はホステルの近くのレストランで飯を済ませた。フランス人の男を見送った後、僕はナリとユニと一緒に、ウルケルやブドヨヴィッツを飲むためにあちこちのバーを梯子した。
プラハからドイツへは、途中でピルゼニュの町を通る予定になっている。ピルゼニュは、ピルスナーの元祖ピルスナーウルケル誕生の地であり、プラハからは大した距離はなく、方向もドイツへ向かう途中に位置している。僕はウルケルを飲みながら、早くピルゼニュに行けるように、出発の準備をしようと思った。
翌朝、絨毯を梱包するダンボールを手に入れるために、自転車屋を探して町を歩き回った。ようやく、自転車屋を見つけて適当な大きさのダンボールを譲ってもらい、テープやロープを買ってホステルに戻ると、ユニに町を歩かないかと誘われた。歩くぐらいなら断るのも理由のないことなので一緒に散歩することにした。
連れて来られた旧市庁舎の前の広場には、夕方にもかかわらず観光客が大勢歩いている。そういえば、プラハを観光していないことに気がついた。ユニに勧められたホットドッグを食べながら2本の塔を持つティーン教会を見ていると、なるほど、プラハというのは美しい町だな、と感心せざるを得なかった。旧市庁舎には機械仕掛けの時計があり、ギミックが作動する時刻が近づいているせいか、時計の周りには人だかりができている。しばらくするとギミックが作動し観光客から歓声が揚がった。 さて、そろそろ帰ろうかと言おうと思っていると「私は、あなたと歩きたいところがあります」と急にユニが言った。
「どこを歩くの?」と聞くと、ユニが歩き出したので、後ろについて行くと、いぶされたように黒ずんだゴシック建築の火薬塔を通って、ヴルタヴァ川にかかるカレル橋の前に出た。
「それはここです!」
そこは絵に描いたようなロマンチックな場所だった。川の向こう岸には、フラッチャニの丘の上にプラハ城がそびえ、振り返ると旧市庁舎広場に立つ様々な建築が見える。橋の両側には15体ずつ、合わせて30体のキリスト教の聖者の像が並んでいて、その中には日本人に馴染みの深いフランシスコ=ザビエルの像もある。橋の上では、似顔絵描きや、物売り達があちこちにいて、大道芸人が演奏する楽器の音色に大勢の人が足を止めている。中には肩を寄せ合ってうっとりと聞き入っている老夫婦もいる。定年後の旅行なのだろうか。
おそらくプラハという町は地球上で最もロマンチックな町のうちの一つに違いない。もし、誰かに恋人と2人で旅をしたいのだが、どこの町がよいだろう、と聞かれれば間違いなく僕は、プラハだと答えるだろう。
そして、時刻は、夕方という最もムードのいい時間帯だった。ユニが、がっかりするのはわかっていたが、僕は「帰ろう」と言ってホステルに向かって歩き出した。こんなところにいたら、どんな女の子だって頭がおかしくなるに違いない。ホステルへ向かう坂を歩きながらユニが呟いた。
「あなたはいいわよ。私と違って目標があるんだもの。私にはまだそれが見つかってないの」
「じゃあ、目標を見つけるのが、さしあたっての君の目標じゃない?」
「それはそうなんだけどね・・・」
上り坂に疲れたのか、うんざりした口調でユニは答えた。
ホステルに戻ってベッドに寝転んでいると、ナリがニヤニヤしながら近づいてきた。
「アサ、ユニは元気ないです。どうしてですか?」
「お腹が痛いって言っていたよ」
「違うわよ。アサムラさんが全然ユニのことを構わないからじゃない?」
そんなこと言われたってこっちは知ったことではない。ユニに優しくしてあげても余計に話がややこしくなるだけだ。だいたい、何度もその気がないことを言っているはずなのだ。
「僕は明日出発するよ」
「私とユニは、明後日の切符を買っているの。アサムラさんも明日に出発するのは、やめて明後日にすれば?」
できない、と言おうと思ったが「わかった。明後日にするよ」と答えた。先を急いでいると言っているのに、どうして人の予定を遅らせようとするのだろうか。訊ねるのも考えるのも面倒だった。他人に付き合うと自分で決めたのだから、後で遅れを自分で取り戻せば、それでいいだけのことなのだ。
僕は翌日の出発に備え、絨毯の梱包を済ませた後、ドミトリーを出たところにある階段の前で自転車のチューブのパンクを直していた。大抵の自転車旅行者は、チューブがパンクした時に路上でいちいち直すと時間がかかるので、バッグに数本の予備チューブを用意しておき、パンクした時には、穴の開いてない別のチューブに取り替えるだけで、穴の開いたチューブは時間がある時にまとめて修理するようにしている。僕が穴の開いた5本程のチューブを順番に直していると、ユニが近づいて来た。ユニはパンクの修理に興味を持ったのか、僕のすぐ隣にしゃがみ込んだので、手元が影になり作業がやりにくくなった。僕が体をずらして影にならないようにすると、ユニも体を寄せて、また手元が影になる。そういうことが数回繰り返された。作業がやりにくいということに気がつかないようだった。
「見ていても構わないが、距離をとってくれないか」と僕は言った。すると、ユニは目を丸くして「なんて失礼なことを言うの!」と僕に言った。何が失礼と言うんだ。いい加減にしてくれ、人が作業している時には邪魔にならないように近づかないのが当たり前だろ、と言ってやろうかと思ったが、言わなかった。いくらなんでもバカバカしい。出身国が違うとはいえ、それぐらいのことは万国共通の認識ではないのか。もし、違うというのであれば謝るべきかもしれないが、おそらく、この場合は、ユニが僕の作業を邪魔していることに気付いてないだけだろう。小学生ではないのだから、言われなくても、それぐらいわかってもいいはずだが、と思いながら黙って作業を続けていると、ユニは憤慨した様子でドミトリーへ戻っていった。
作業を終えた僕が、ドミトリーでヨーロッパの地図を広げて、パリまでのルートを確認していると、ナリがやってきて「近くのバーで『ベルベット』っていうビールが飲めるの。すごくおいしいから今夜、三人でのみに行かない?」と言った。
僕は「別にかまわないよ」と約束をした。
夜になって僕達は予定通り飲みに行くことになった。
ナリが案内したバーに入ると早速、ベルベットを注文した。天使の絵が描かれたグラスに注がれた泡は驚くほど細かい。「これがビール?こんなビール初めてだ・・・」まるでカプチーノのようなキメ細かい泡がグラスを覆っている。
「今日、ユニが怒っていたわよ、何か言ったの?」
「いや別に」
「離れてくれって言ったじゃない」黙っていたユニが口を開いた。
「それがどうしたと言うんだ」
「すごく失礼よ」
「友達同士とはいえ、人が作業に集中しているときに、ピタリと、くっ付くのはやめて欲しいと思っただけだ」
「でも、私はスキンシップは大切だと思っている。日本人の考え方を押し付けるのはやめて欲しいわ。ここは日本じゃないのよ」
「僕は日本人の考え方を押し付けるつもりはない。僕は一人になって、作業に集中したかったから部屋の外に出ていたんだ。例えば、君は絵を描いてるときに人に覗き込まれると気が散らないか?僕は気が散る。大抵の日本人は、そういうことを嫌がる。嫌がらない人もいるかもしれないけど、隣で覗き込んだりすることは避ける。世界中そうだと思うけど、でもそれは、僕の思い込みで、君にはわからないかもしれない。だから、僕は見ていても構わないけど、距離をとってくれと言ったんだ」
「じゃあ、スキンシップをとりたいという私の気持ちはどうなるの?」
「スキンシップがとりたいというのなら、何も僕じゃなくてもいいじゃないか」
「あなたは特別なのよ」
「ドミトリーのみんなだって特別だろ?」
「違うわ、あなたは自転車で旅をしてるから特別なのよ」
「じゃあ、皆は自転車じゃないから特別じゃないっていうことかい?僕は君だけが特別というわけじゃない。ナリだってスゲだって、僕が一緒に旅をしたロブだって特別だ」
「特別というのは一緒にいたいということよ」
「親しい人間同士だからといって、いつも一緒にいなくてもいいじゃないか。親しければ遠くにいても、お互い平気なものだと思うよ」
「私は特別な人とはいつも一緒にいたいのよ!」とユニは大声を出した。
あんまり大きな声だったので、近くにいた客が、僕らに注目した。
「僕は君と、いつも一緒にいたいとは思わない」
少々、キツイ言い方でないと、わからないのかもしれないと思ってそう言った。気まずいと思ったのか、話を聞いていたナリが話題を変え、しばらくして、僕らはホステルに戻った。
午前中にカーペットなどの荷物を日本に郵送して、午後に出発しようという計画だったが、ナリやユニもそれぞれ自分達の荷物をまとめて、韓国へ郵送するというので、彼女達が梱包を終えるのを待っていると、作業の途中で、ナリが「スーパーに買い物に行くのだが、一緒に行かないか」と言う。グズグズしてる暇はないので断ろうと思ったが、長い距離を走ることは諦めて、出発した後、町の近くで野宿すればいいだろうと考え直し、買い物に付き合った。買い物したものを荷物に加えて梱包が済み、3人でトラムに乗って郵便局に持って行き、それぞれ荷物を郵便局に預けると身軽になった。しかし、ホステルへ引き返す途中で、妙に体が重く感じることに気がついた。どうも頭が痛い。歩くと頭がガンガンする。
ホステルで荷物をまとめ、自転車を押して彼女達を見送るために駅へ向かった。ナリやユニが駅で切符を買い、電車を待つまでの間、彼女達と駅前の屋台で、焼き飯を食べながら僕は考えた。プラハを出発するのは明日にしよう。今日は無理だ。時間が遅いから町を出たにせよ野宿地を見つける前に日が暮れるし、何より頭痛がひどい。僕はホステルに戻ることを決めた。
「ナリ、ユニ。僕は今日もう一泊して明日の朝、出発するよ。頭痛がするんだ。今日は走れそうにない。君たちを見送った後、僕はホステルに戻るよ」
僕は駅の中でハンバーガーを食べながら、彼女たちにそう言った。「じゃあ、気を付けて」と最後に言って別れ、駅を後にして僕はホステルに引き返した。ホステルに再びチェックインしてベッドに寝転んでいると、いろいろなことが頭に浮かんだ。
数ヶ月振りで再会した彼女達には嫌な思いをさせただろうし、5日間の滞在による宿代や飲み食いで、ますます出費してしまい、予定は、さらに遅れた。挙句の果てに体調を崩している。これでは何のためにプラハに滞在していたのかわからない。いや、今はそんなことは考えるべきではない。明日までに体調を整えて、ここから一直線にパリを目指すのだ。西ヨーロッパに入る前に、絨毯を郵送するという目的は果せたではないか。
そう考えながら寝転んでいると、少し楽になった。しばらくしてフロントに下りていくと、驚いたことに、さっき別れたばかりのナリとユニがフロントのソファに腰掛けている。
「私達も出発を明日に延期したの。切符が変更できたのよ」
「明日出発するのかい?」
「そうよ。それより頭痛の具合はどうなの?」
「別に、大して動かなければ平気だよ」
「よかった。ちょっと心配してたのよ」
「ありがとう、でも心配はいらないよ」
ドミトリーに上がって一人でベッドに寝転んでいると、隣にナリがやって来た。
「調子は、どう?」
ナリは随分心配しているのか、不安そうな顔をしていたが、楽になったと答えると、しばらくしてこう言った。
「ねえ、あなたはユニが嫌いなの?」
僕は、なぜ、そんなことを聞かれなければならないのかと疑問に思った。彼女が自分のことを好きだということは知っている。だが、恋人になるつもりがないからといってなぜ、そんなことを聞かれなければならないのだ。僕はナリに、そのことをはっきり言おうと思った。
「誰が嫌いなんてことをいった?彼女のことは大事な友人だと思っている。なぜかわかるかい。僕は日本で韓国人の友人がいなかったんだ。それがイランで君たち3人に出会って友達になれた。もし、出会ったのが日本や韓国だったら喋る機会が、あったかどうかわからないし、友達になっていたかどうかもわからない。でも僕達はこうして友人になった。そのことは嬉しい。でも恋愛は別問題だ。そのことはイランでも言ったし、君も知っているはずだ。それなのになぜ、君はユニをけしかけるんだ?それはユニや君の勝手かもしれない。でも長い友人になろうとしている僕にはストレスがたまる。こんなことを言うと君は怒るかもしれないけど、僕は君のことを友人だと思っているから正直に言うんだ」
ナリは黙って聞いていた。僕は一気に喋り倒しながら考えた。どうして、こんなに苛立っているんだ?なぜだ?頭痛のせいか?それとも計画が狂っているせいか?ナリはユニの友人でユニは僕に好意を持っただけじゃないか。それなのになぜ、こんなに苛立っているんだ。頼んだわけではないが、彼女達は、このプラハでの再会を楽しみに一週間待っていてくれたんじゃないか。僕は余裕を失っている。このままで明日、2人と別れるのでは、後味が悪すぎる。
「今夜、3人で飲みに行かないか」
僕は黙り込んでいたナリにそう言った。
「大丈夫なの」
「軽く飲むぐらいなら大丈夫だよ」
僕達は近くのバーへ行き、当り障りのない話をしてベルベットを飲んだ。どうやら、それが精一杯だった。
翌朝、起きると頭痛もなく、すっきりとしていた。昨日のように遅くなると困るので、早めにチェックアウトしようと決めて、テキパキと準備を済ませた。「じゃあ、今度こそ、行くよ」と彼女達に告げると「体調は?」とナリが聞いた。
「完璧さ」
僕は二人に見送られ、ホステルを後にした。町を出る前に一人で、あの美しいカレル橋を見に行こうかと考えたがやめた。
「見たけりゃ、また来ればいいさ」
人生は一期一会、二度とプラハを訪れる機会はないかもしれないが、僕が見たいカレル橋は、自転車で出発のついでに見にいくカレル橋ではないような気がした。ここで橋を見に行って、それが何の一期一会だろうと思いながら僕はプラハを後にした。
「これじゃ寒くて眠れない。どうしようもないな」
地面が冷たくて体がすぐに冷えてしまい、全く眠りにつくことができない。まるで氷の上に寝ているようだ。横になっていると地面に体温が奪われ夜中に何度も目が覚める。うっかり、ロールマットをプラハのホステルに置き忘れてきたのだ。
ガソリンスタンドを見つけるたびにホットコーヒーを飲み、トイレでボサボサになった頭を眺め、少しパンをかじった後、また走り出す。そんなことを繰り返して走っているうちに、千切れそうになっていたチェンジワイヤーが遂に切れ、おまけにシフトワイヤーが壊れてしまったので、パキスタンを走っていた時と同じように使用できるのはスモールギヤのみになった。ただでさえ、日照時間は短く、膝に痛みがあるので全く進めない。
ピルゼニュへ向かう気もなくし、最短距離でドイツとの国境を目指し、どこかで修理はできないものかと寒さに耐えながら、霧の深い林を走り続けていると、プラハを発って三日目にカルロヴィヴァリーの町にさしかかった。ここはベートーベンやモーツァルトといった音楽家や、トルストイ、ゲーテなどの文豪が訪れた由緒あるチェコ最大の湧出量を誇る温泉地である。道をそれて町に寄るのはタイムロスだが、自転車屋があるかも知れない。そう思って、町に入っていくと都合よく自転車屋を発見することができた。シマノ製のシフトチェンジを買い、その場で新品に取り替えてワイヤーを張り替えると再びギヤが使用できるようになった。自転車屋のすぐそばにアウトドアショップがあったのに土曜日で昼からは閉まっていたので、ロールマットが買えなかったのは、残念だったが、ギヤが使えるようになっただけでも十分町に寄った甲斐がある。
ドイツ入国を間近に控えて、立ち寄ったホームセンターのような店で、作業用の厚手のジャケットが目に付いた。安くて随分暖かそうに見える。これを着て寝たなら寒くはないかもしれない。ドイツに入国すれば物価は一気に上がるに違いないと思って、買うことにした。
翌日、行く先にとうとう、ドイツとの国境らしきゲートが見えた。「あれは国境かい?」ガソリンスタンドのスーパーで店員に訊ねた。
「そうだよ」
「じゃあ、あの向こうはドイツなのかい?」
「そうだよ、ドイツだよ」
遂にドイツまで来たのだ。そしてドイツを越えればパリは、すぐそこにある。僕は、景気づけに、余ったチェコの金で缶詰やビールを買い、ドイツへ入国した。
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