浅村朋伸の「世界一周自転車旅行記」 三井寺ホームへ

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天竺を走る VOL.11

ラクソウルの町から国境を越え、再びインドへと戻ってきた。

さすがにインドの町はうるさい。空気が濁っている。インドへ帰ってきたのだということが、はっきりわかる。

道を走るバスの窓ガラスは乗客によって叩き割られたのか、一枚もない 。

バスに乗っているインド人達は、車体をバンバン叩きながら大声でわめき散らしている。屋根にも乗って騒いでいる。なんなのだろう。彼等は運転手に、行き先かを伝えようとしているのか、勝手に楽しんでいるだけなのか、よくわからない。インドとネパールは似ているようで、やはり違う。

インドに戻った僕は、まずパトナーの町を目指すことにした。

パトナーは、古くからの都市で、その昔はパータリプトラと呼ばれ、中国からシルクロードを踏破し、インドまで旅をして西遊記のモデルとなった玄奘三蔵法師も訪れている。

ネパールでは肌寒い気候だったが、平地のインドでは暑い日が続いたせいで、知らない間に、道端の売店を見つけるとコーラを買う癖がついていた。

一度目のインドで走ったウエストベンガル州とは違って、コーラを冷やしている店があることに、ビハール州の商売人のやる気を感じた。しかし、全部が全部、冷えているわけではなく、ぬるいコーラを売る店もある。

コーラを買うときは、まずクーラーボックスの蓋を開け、瓶を触って温度を確かめる。ボックスに氷が入っていれば、冷えているので買う。氷がなければ、ぬるいので次の場所まで我慢して、また温度を確かめる、という具合に冷えたコーラを求めて走り続ける。
日本では、冷えているコーラが買えるということは当たり前だが、このインドでは当たり前ではないのだ。

ムザッファプルという町で泊まることにした宿はボロボロだった。

インドのホテルでは宿泊者名簿に父親の名前と職業を記入する欄があるが、これはカーストというものが世襲であるから、親の職業から、その人間の身分を知るためかもしれない。日本でもたまに親の職業を訊ねる人がいる。インドで何度も、この手の質問を受けているうちに、本質が似たものだということに気付いた。目の前にいる人間がどういう人間か知るために親のことを訊ねる。

とにかく日本人もインド人も、目の前の人間が、どういう人間かを知ろうとする時に、親の職業を判断材料にするのは共通である気がした。カーストが絶対的であるインド社会では当たり前だが、日本でも、そういう質問を受けることがあるのは、昔、身分制度があった名残かもしれない。

ホテルがボロボロなのは気にならなかったが、蚊がうるさいのには参った。国境の辺りから急に蚊が出没しだした。なぜこんなに、この辺りの蚊は強力なのだろうと思うぐらいに羽音が違う。強烈にうるさい。ついに、我慢できなくなって蚊取り線香を買うことにした。

僕はホテルの外に出て(蚊取り線香なんてものが、果たしてインドにあるのだろうか)と思いながら売店を探した。
蚊取り線香は英語で「モスキートコイル」であるということは辞書で調べておいたので、売店で「モスキートコイル」と言ってみた。

「これか?」と言って店の男が差し出した箱には、ジェット機と撃墜された蚊の絵が描かれていた。中を見ると、まさしく日本で見慣れた渦巻状の蚊取り線香である。何とも頼りになりそうだが、効き目はあるのだろうか?何といってもインドの蚊はしぶとそうだ。ホテルの部屋に戻って、早速マッチを擦り、蚊取り線香に火をつけた。すると、ブスブスと音を立てて、モクモクと異常なまでの煙が立ち始めた。

「なんだこりゃ?」と僕はびっくりした。

粗悪品を掴まされたか。

ここはインドである。優秀な日本の製品と比べようがない。

仕方がないか、思って半ば諦めてると、驚いたことに、さっきまでうるさかった蚊達がポトリ、ポトリと床に落ち出した。

「なんだこりゃ?」

すごい即効性だ。文句なしにすごい。さすがインドである。
なまぬるい日本の製品と比べようがない。
この部屋にいたら自分も危険ではないのかと思うほど、あっという間に蚊は全滅してしまった。

この辺りがネパールから近くて、日本人の顔がモンゴロイドのせいだろうか。チャーイを飲むために、村の茶店で腰掛けると、僕を取り囲んだインド人達の中の数人が「ネパーリー!ネパーリー!」と言って声をかけてくる。

完全にネパール人と勘違いしている。無理もない。まさか日本人が自転車に乗って自分達の村に現れることなど滅多にないのだろう。

どうも温和なウエストベンガル州の人々と違って、ビハ−ル州の人々は気性が荒い気がする。「ネパーリー!」と呼びかける声もバカにしたような口調で、何かと威勢がいい。これだけ広い国だ。同じインドでも地域によって気質が違うのは当たり前なのかも知れない。

ガンジス川の北岸の町、ハジプールから巨大なマハトマ・ガンジー大橋を越え、南岸に渡ることになった。

日本では橋を写真に撮るという行為は、何の問題もないが、インドでは、こういった橋などの建造物は、軍事上の機密に属するため写真撮影が禁止されている。

橋の両端には銃を持っている兵士が立っていたし、渡っている途中にも兵がいた。恐らく、テロによって橋を爆破工作されるのを防ぐためなのかもしれない。

のんびりとしたイメージのあるインドだが、実はそこかしこに緊張感が漂っている。

ガンジス川を越えた僕は、いよいよパトナーに近づいた。

タクシーを見つけ、道を尋ねようとして、あえて「パトナーは向こうかい?」と聞かずに、「パータリプトラは向こうかい?」と聞いてみた。

「パータリプトラ」などという古い名前で、外国人に道を尋ねられると、さぞ驚くだろうと思ったのだが、「そこだよ」と言って、そのタクシードライバーは、僕の背後を指を差した。後ろを見ると、そこには柵に囲まれた敷地があり、案内版があったので目を通すと、紛れもなく「パータリプトラ」と書かれている。僕が道を尋ねた場所は、偶然にもマガタ国の首都パータリプトラの王宮遺跡の前だったのだ。これには人を驚かすつもりが、自分が驚いてしまった。

今は野原にしか見えない、その遺跡には壊れた柱がゴロンと転がっていた。ここでインドの女性ダンサーが王のためにインド映画のような踊りを舞っていたのかもしれないと思うと無常観にとらわれた。

現在のパトナーの町は王宮の遺跡からは数km離れていて、到着するには少し時間がかかった。到着したパトナーの町は都会だった。街の中央の交差点に建っている古ぼけたビルのホテルにチェックインを済ますと、まず、飯を食いに行くことにした。小さくて安い店を探すのが面倒臭かったので、少し高そうな店に入った。中は薄暗く清潔で、ディナーショウでも開催されそうな高級感のある店だった。メニューを見ると流石に割高だったが、それでも日本に比べると安かった。僕は焼き飯を注文して食べた。日本で当たり前のように食べている焼き飯が、とても高級な料理のように感じた。

 腹を満たして、町をブラブラした後、ホテルに戻って、これからのルートの設定をしてみた。カトマンズで手に入れたインドの地図は、町の位置を記す丸印の大きさが人口によって違っていたので、ホテルの有無の見当をつけやすく便利だった。インドではホテルの無い町もあるので、一日の平均走行距離に合わせてホテルのありそうな町を選びながらルートを設定していかなくてはならない。いくらよくできた地図でも、ホテルがあるかどうかまでは記入されていないので、ホテルの有無を見分けるには、地図から読みとれる町の人口と勘に頼るしかないのだ。

 僕はこのパトナーから、バラナシに向かう途中、ナーランダー、ラージキル、ブッダガヤをルートに組み込んだ。これらの町は仏教の史跡としてとても有名で地ある。

 せっかくインドに来たのだから、これらの地を訪れておきたかった。何しろ、ここは我々の先祖が遠く思い焦がれた天竺なのだ。そう、僕はあの天竺にいるのだ。

パトナーを出発して、まず訪れたナーランダーには、西遊記のモデルとして有名な玄奘三蔵法師が7世紀に中国から砂漠を越えてインドへ来て、仏教を学んだという世界最古の大学、ナーランダ−僧院の遺跡があった。僧院は、レンガ積みの遺跡で、いくつもの小さな部屋があった。僕は一つ一つの部屋を確かめるように歩いた。自分が歩いている場所を、あの三蔵法師も確実に歩いたに違いないのだ。

全部の部屋を覗いて回ったが、1300年以上遅れてきたので、三蔵法師の姿は、当然どこにも見当たらなかった。彼は、ここで一番の成績を修めて勉強を終え、とっくの昔に中国に帰ってしまったし、死んでしまった。

一体どれほど、頭がよく、体力があり、意思が強い人間だったのだろうか。一目でいいから会いたかった。

僕は、しばらく塀に座り込んで遺跡を眺めた後、ナーランダーを出発して、13km離れたラージキルという町に宿をとった。

ここには、お釈迦さんが弟子達に説法したといわれるグリッタクータという山がある。漢訳仏典に「常在霊鷲山」とあるが、このグリッタクータが霊鷲山である。

翌日、僕は歩いて霊鷲山へ行き、頂上へ登ることにした。そんなに高くはなかった。緩やかな石段を登りきると、赤茶けた荒野が見渡せた。見渡した景色は西部劇の舞台のようだった。

(仏典とは、なにかイメージが違うな)という気がした。日本の仏教の持っているジメジメしたイメージが全くない。開放的で乾燥している。



山はハゲ山で、気温も高くて暑く、広大な荒野の景色も広がっている。こんな殺伐としたところで、お釈迦さんは弟子達と生活していたのかと思うと、何となくイメージが崩れた。なんてワイルドな人達なのだろうか。ひょっとすると、昔は緑豊かな土地だったのかもしれないと考えながら、僕は石段を下って、ターンガと呼ばれる馬車に乗ってホテルまで戻った。

翌日、ラージキルから102km走って、お釈迦様が悟りを開いた地であるブッダガヤに到着した。お釈迦様は悟りを開いたときに菩提樹の木の下で瞑想をしていたといわれるが、その菩提樹の木には大勢の観光客が見学に訪れ、随分と賑わっていた。祈りを捧げる仏教僧らしきアジア人からヒッピー風の白人の若者や、金持ちそうなツアー客など、様々な人達がいた。

妻子を捨てて修行の道を志したお釈迦様は随分、世界中の尊敬を受けているが、恐らくよほど我の強い人間だったのだろう。そうでなければ、一国の王子ともあろう立場の人間が、自分の国や家族を捨てるようなマネが出来るわけが無い。今の日本では、どのような理由があれ、非の無い妻子を捨てるということは社会的に許されることではない。それは、ただの我侭に過ぎない。自分がそんなマネをされるとブチ切れるだろうが、多くの人は、そんなこと気にもしないでお釈迦様を拝み倒す。理由は、ただ尊いからだ。

何が、どう尊いということは考えもしないし、考える必要がないのが、我々の日本社会である。なんと幼稚な思考回路だろうか。思考回路以前に思考停止に陥ってしまっている。お釈迦様は、人間に深く思考することを求めたはずであるのに、多くの人間が、思考を停止してしまっているのだ。

仏教は、この木の下から始まり、日本へもやって来た。我々日本人にとって、仏教が入ってきた飛鳥時代は、はるか遠い昔のことだが、この菩提樹から見ると、日本へ仏教が到達する飛鳥時代は未来のことなのだ。ああ、間違いなく、ここは、お経の世界天竺であると思うと、そこに自分がいるのが不思議な気がした。まるで絵本の中に入り込んだようだ。

ブッダガヤの町でネット屋に入り、メールを確認するとネパールで出会ったアキラが、もうすぐバラナシに到着するという知らせがあった。急げば、彼と再会することができるかもしれない。

ブッダガヤを出発した日は、夕方から雷雨になった。

夜中になってデーリという町に到着した。雨は全く止む気配が無い。こんな時に限ってホテルが見つからない。

「ホテルはどこか知らないか?」

何度も人に道を聞きながら、見つけたホテルは既に満室だった。

「他にホテルは無いのか?」

「すぐ隣にあるよ」

助かった、と安心して隣のホテルで部屋の値段を聞こうとすると、そのホテルも満室だった。

運が悪いな、と思ったら、そのまた隣のホテルも満室だった。その通りはホテルが集中していたが全て満室だった。

「ウソだろ」何で今日に限って、どこのホテルにも空き部屋が無いのだろう?グズグズしてられない。こんな土砂降りの中、外でウロウロしていたら風邪を引くに決まっている。

「もう、ホテルは無いのか?」

「この先を、ずっと、いったところに一軒あるよ」

「助かった」

土砂降りの中、自転車を走らせた。繁華街から離れたので道は真っ暗だった。土砂降りの中を五分程走るとレストランだかホテルだか分らない建物が見えた。しかし、それは明らかに潰れていた。

「まったく、どうなっているんだろう?」

この先にホテルはあるのだろうか。

道の先は大きな交差点があり、少し明るくなっているのが見えた。ひょっとすれば、この先にホテルがあると言ったのかも知れない。僕は引き返さずに進んだ。交差点を曲がると、そこには大きなホテルが立っていた。

「助かった」フロントで宿泊料を聞くと随分、高かった。普段、泊まっているホテルの3倍の料金だった。いつもなら、すぐに別のホテルを探すところだが、さすがにそんな気にはならなかった。高いだけあって、このホテルにはルームサービスがあったので、焼き飯を注文した。

狭い部屋だが、雨がしのげて腹が満たせる。さっきまで自分が置かれていた状況に比べると極楽だった。このホテルが、ここにあってくれて本当に有り難いと思った。

翌日は、打って変わって晴天だった。この距離だとバラナシに到着できるな、とデーリの町を出発したが、昼過ぎからどうも体が重くなってきた。胃がもたれているようだった。

胃の調子を悪くすると、どうにもならない。力は入らないし、持久力もなくなる。このままでは、まずいと思って、途中の町でラッスィーを飲むことにした。ヨーグルトを水で溶いたラッスィーは胃の調子を整えるには、そこそこ効果があるが、運が悪ければ腹を壊すこともある。ラッスィーを飲んでしばらく腰掛けていると胃が軽くなってきた。これなら大丈夫だ。

僕は再び、バラナシを目指して走り出した。